「愛をささげる試練」王鋭伝道師–2023.11.12

「愛をささげる試練」
使徒の働き4:31-5:2;王鋭伝道師

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本日の聖書箇所の内容にはテストが含まれています。テストは自分自身の実力を知るため、また、選抜するためのものであります。霊的な命の道を歩む中でも、神様によるテストがあります。不純な動機で教会に集まる人たちや神様の祝福だけを求める人たち、一方で、神様を礼拝し、神様を恐れ敬う人たち、そのような人たちを神様はテストによって、淘汰される者と選び抜かれる者とに分けられます。
 
今回のテストのテーマは「愛を捧げる試練」です。愛を捧げる上での原理と原則は、御霊による潤いとイエス様の御業によって教会に起こるリバイバルと、神様が授けてくださる大いなる恵みです。イエス様は私たちのために全てを投げ出されました。私たちが全てを失うことになったとしたら、引き続き主に聞き従うことができるでしょうか。
 
今日の聖書箇所を見ると、聖霊が豊かに満たしてくださり、教会にリバイバルが起こっていたことがわかります。地が震い動いたということは神様の大能であって、神様が人とともに臨在されていたことの証しです。罪の中に死んでいた私たちは神様の大能によってよみがえり、神様のためにたたかう精鋭部隊となりました。こうして福音が栄え、教会が栄えるのです。新しいいのちの現れとは、心と思いを一つにすることです。御霊によって生まれ変わった者は、キリストに似るように造り変えられ、互いに兄弟姉妹となります。そしてもう一つの特徴は、全てを共有にしていたということです。イエス・キリストが昇天された後に誕生した教会は、教会として在るべき姿を描き、理想の社会とし描かれるべき姿なのです。
 
私たちが愛によって捧げることができるのは、先ず神様が私たちに恵みを施してくださったからです。初代教会の人たちが土地や家を売ったお金を使徒たちの前に置くことができたのは、神様が彼らを恵んでくださったからです。これらは一貫して聖書が教えていることです。全てのものは神様が持っているものであり、神様が厚く恵んでくださったことにより、私たちが捧げる力を持つことができるようになりました。
 
教会で大きなリバイバルが起こったとき、表向きのことだけに目を留めてはなりません。教会に足を運ぶ多くの人は利益を求めて来るからです。私たちが教会に足を運ぶのは、ここにいのちの道があるからです。教会に来るのは真の神様を礼拝するためです。イエス・キリストは私たちのいのちを救うために、ご自分のいのちを捨てられました。私たちも地上のもの全てを捨てられるかどうか、これこそが私たちのいのちが試される究極的なテストなのです。イエス・キリストのお守りがあり、このテストに合格することができますように。


週報2023.11.12

説教: 「愛をささげる試練」 使徒の働き4:31-5:2;王鋭伝道師 お知らせ 本日、高校生聖書伝道 […]


「主が喜ぶ教会」林原億牧師–2023.11.05

「主が喜ぶ教会」
使徒の働き2:37-47;林原億牧師

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今日の聖書箇所は、五旬節から派生した出来事である。ペテロが神様の言葉を語り、3000人が応答したとある。それは教会の会員が3000人増えたわけではなく、神様に従う弟子が3000人増えたという、素晴らしい出来事であった(当時エルサレムの人口は5-6万人と言われていたので、即ち5-6%が応答したことになる)。神様に従う弟子は、神様から与えられた仕事を果たさなければいけない。それは即ち1)忠実に聖書の真理を教える、2)礼典(洗礼・聖餐式)を行う、3)組織としての規律を守る、4)力を尽くして福音を宣べ伝える、5)フェローシップに積極的に参加する、である。
まずは「悔い改めることで御父の元に戻る」という小題についてお話ししたい。ペテロが神様の言葉を取り継いだ時、人々は「心を刺された」とある。これは針によって刺されるという意味である。ある礼拝にて、私は「幸いな家族」というテーマで説教した。家族もその場におり、礼拝後息子が来て「良いメッセージだったけど、我々の家庭はそういう家庭とは思えない」と言われてしまった。父が忙しく、家族で欠席する時期が多いので、「幸い」と感じなかったのだろう。私の心は「刺され」、それから、年に一回家族ぐるみで宣教旅行に参加することで応答した。ペテロのメッセージを聞いた人々は、反省し、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と応答した。私たちも御言葉を知識として聞くのみならず、また聞き流すのでもなく、初代教会の人々のように、正しく応答する心を持ちたい。
そのような人々に対し、ペテロはまず「悔い改めなさい」と言った。悔い改めるとは、ヘブライ語で「間違った方向から転換する」という意味がある。御言葉が臨んだ時、私たちは御心でないことから離れ、神様が命じることを実行しよう。続けて「バプテスマを受けなさい」と語った。バプテスマとは、他の神々でなく、イエス様に属する者になる、という意味である。洗礼を受けた後、私たちはイエス様の道に進み、教えを守る必要がある。そうすると「罪が赦される」とあるが、これは言い換えると、払うべきであった負債が免除される、という意味がある。そしてペテロは更に「賜物として聖霊を受ける」と語った。御霊を受け入れることは、新しく、豊かないのちのスタートである。
39節にあるように、悔い改め~御霊を受けることは「約束」と表現されている。ここで目を留めたいのは、ルカが「すべての遠くにいる人々」にもこの約束は与えられていると書いた点である。キリスト者は、愛する人のみならず、神様の御心の通り、好きではない人にも、知らない人にも、福音を宣べ伝える使命が与えられている。なぜなれ、そのような人々に福音を宣べ伝えてこそ、本当の愛の表現だからである。続けてペテロは「この曲がった時代から救われなさい」とあるが、これは言い換えると私たちが生きる時代は神様によって「裁かれる時代」である。だからこそ、唯一の救いである福音のうちに生きる者とさせて頂きたい。
もう一つ強調したいのは、「信仰の群れとしての生活」である。42節では「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを割き、祈りをしていた」とある。今日において、誰がこのような教えを守るのだろう。成熟なクリスチャンだろうか。当時は洗礼を受けたばかりの人々がそうしていたことは明らかである。ここでは二つのギリシャ語のキーワードがある。一つは「教え」。これは即ち使徒の教えを堅く守り、身を委ねるという意味がある。もう一つは「交わり」。これはフェローシップのことを指す。即ち、クリスチャンは使徒の教えを守りながら、教会の中でそれを活かさなければならない。フェローシップとは、私たちの聖書の理解を応用し、実行し、確認する場所である。
そして初代教会において「恐れが生じ」とあるが、これは神様を恐れることを指す。教会にそのような気持ちがないのであれば、その教会は未熟である。続けて44-45節では、「一切の物を共有にしていた」とある。私たちは持っているものを人々に分かち合えるだろうか。分かち合えるのは、いのちが変えられた証拠でもある。加えて彼らは「喜びと真心をもって食事をしていた」とある。教会に来ることは喜びの気持ちがあるはず。私たちが真心を持って礼拝するのであれば、神様は平安と喜びを増し加えてくださる。最後に「すべての民に好意を持たれ」とある通り、主が喜ぶ教会は隣人と良い関係を築ける。
主が喜ぶ教会は生まれ変わった教会である。主が喜ぶ教会は、主を恐れて礼拝し、主にあって兄弟姉妹と交わりを持ち、主のために伝道し、主を愛するように近所に気を配り、主の教えを基に正しい神学・信仰のある教会である。このような団結した初代教会であったからこそ、外に向かって発展できた。どうか、主が私たちを助けてくださいますように。


「信仰による救い」小山田格牧師–2023.10.29

「信仰による救い」
ローマ人への手紙3:23-24;小山田格牧師

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キリスト教の暦では今日は宗教改革記念日です。ドイツ人のマルティン・ルターによる、約500年前の出来事です。その彼に大きな影響を与えたのがローマ人への手紙です。ローマ人は二つに分けられ、1章〜11章までは救いの教理について、12章〜16章までは救われた者の行いについての記述です。今日は第3章から信仰によって救われるという大事な箇所を学びますが、第1章20節の、この大宇宙を造られた神の存在は自然界を見ると誰にでもわかるという箇所、また17節もルターの生涯に大きな影響を与えた箇所ですので覚えてください。第2章15節、16節も重要な箇所です。人間の良心は神様が与えてくださったものですが、この良心は私達が悪行を続けると麻痺してしまい、悪いことを悪いと思わなくなります。しかし最後には、私達に対し神様の裁きがあると聖書にはっきり書かれており、私達が忘れている隠れた罪も全て神様の前に映し出されます。これでは天国に入ることはできません。しかし3章にはそんな私達も神の国に入ることができると書いてあります。本日の聖書箇所3章23節、24節を観てください。
 
 宗教改革に用いられたマルティン・ルターは、幼い頃から神を信じ真面目で、厳格な父親の元成績優秀に育ちました。父の敷いたレールを歩みながら彼は、神様も父親同様厳しい存在であろうから、罪多き自分は死んでも天国には入れないと悩んでいました。そんな中彼は3度、死の恐怖を体験します。病気、大怪我、そして三度目は目の前で突然起きた凄まじい落雷です。あまりの恐怖に「助けてください!助けてくださったら、私は修道士になります」そう叫び神に祈ったのです。雷は消え、その後彼は父親の猛反対を押し切って、神との約束通り修道士になり聖書を懸命に勉強したのです。
 
 当時の教会は、救われるには「神を信じることと善い行いをすること」と教えていました。しかし聖書の3章23節24節には「すべての人は、罪を犯したので、神から栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」とあり、善い行いで救われるとは書いてありません。救いは神の恵みによってであり、それは受けるに価しない者にも惜しみなく注がれる神様の好意です。しかし当時のローマ教会は大きな教会建築に資金が必要だったため、教会に献金することであなたの罪は救われると教えたのです。当時の聖書はラテン語でしたので、ドイツ人が聖書を読めないことが教会には好都合でした。後にルターによりドイツ語に翻訳されると、人々は喜んで聖書を読むようになりました。宗教改革はこうした教会の堕落によって起きたのです。
 
 聖書をよく読んでいなければ、間違った教えに騙されます。聖書には「救いは、ただ神の恵みにより、イエス様の贖いによって義と認められる」と書いてあります。私達の行いではなく、イエス様が何をしたかです。贖いとは、奴隷になっている人を親切な人がお金を払って解放するという意味です。聖書には、私達が救われる前は罪と死と悪魔の奴隷であるとあります。憎しみ、妬み、薬物などの罪の奴隷。二つ目は悪魔の奴隷。天使の中で一番強く悪いサタンは超能力を持ち、狙われると逃れることはできずにどんな立派な人でも罪を犯します。教会もイエス様を礼拝せず悪魔を礼拝する所があるのです。絶対に行ってはいけませんし、この世的なものはサタンが利用し奴隷にするので避けなければなりません。3番目は死の奴隷。最初の先祖が罪を犯したので人間は死ぬことになりました。私達は皆死の奴隷です。しかしこの奴隷の私達をイエス様が犠牲を払い、十字架の贖いによって解放してくださったのです。
 
 真面目なルターは一生懸命努力しましたが心に平安はありませんでした。ある時イエス様の「義人は信仰によって生きる」(ローマ人1章17節)という言葉が響いてきて、現金でも己の努力でもない、イエス様を信じればいいのだと悟ります。イエス様を信じた瞬間に永遠の命が与えられます。彼は聖書を翻訳し、当時の教会と戦いました。聖書の教えを信じれば救われる。そしてそれが世界に広がっていきました。救いはあなたの善い行いによるのではありません。イエス様を信じているかどうかです。信じれば大丈夫です。最後の審判で神様に裁かれることはありません。


週報2023.10.29

説教: 「信仰による救い」 ローマ人への手紙3:23-24;小山田格牧師 お知らせ 本日、王鋭伝道師 […]


「みことばによる信仰の立て直し」王鋭伝道師–2023.10.22

「みことばによる信仰の立て直し」
ネヘミヤ記8:1-12;王鋭伝道師

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今日の聖書箇所は、輝かしい神殿や城壁について言及しているところはありません。大きな広場に人の群れがあるだけです。しかし、彼らは神の民であり、神の御ことばと賛美があります。神様の御ことばが朗読されて、神様の御ことばがここで解き明かされます。楽器はありませんが、真実の賛美があります。何千何万ものイスラエル人が心一つとなり、神様の御ことばに聞き従い、御ことばから慰めと喜びと力を得ました。彼らが賛美している神様は私たちが礼拝している神様であります。城壁や建物はありませんが、これこそが本当の教会であります。神様の御ことばがあり、神の民の一致があります。本当の礼拝と本当の悔い改めがあります。そして、イエス・キリストこそ、本当の神殿であり、ここに本当の城壁があるのです。神様の御ことばこそが私たちを守る城壁なのです。
 
 ネヘミヤ記は全書において、どのように城壁を建て直すかについて書かれています。当時は戦争が多い時代でしたので、外敵から身を守るために城壁が必要でした。また、強盗からも身を守ることができました。エルサレムが代価を払って城壁を建て直したのは、安息日を守るためです。安息日になると、異邦人が商売道具を持って入ってくるからです。今日の発展した世の中においてもどうでしょうか。霊的成長も乏しく、教会にも行かなくなってしまったのではないでしょうか。ですからネヘミヤは、危機感を持って城壁の再建を強く願いました。しかし、神の民を守る本当の城壁は神様の御ことばです。私たちが異邦人の中に住んでいてもきよいままでいられるのは、御ことばが私たちを守ってくれるからなのです。神様の御ことばと律法が城壁となって、私たちの心にいるのです。
 
 エズラが神様の御ことばを朗読して解き明かしをしたとき、心を動かされたイスラエルの民は泣きました。完全できよい神様の命令を守れず、罪を犯したことに対して泣きました。しかし、聖書は律法だけではなく、主イエス・キリストの福音で満ち溢れています。御ことばによって自分の罪を知り、悔い改めに導かれ、イエス・キリストの十字架によって救われます。そうして、御ことばによって新しい道が与えられます。私たちは自分の罪を自分の行いで贖うことはできません。城壁はイエス・キリストの救いであります。イエス・キリストこそが本当の神殿であり、城壁なのです。イスラエル人は自分たちの手で建て上げた町に住み、自分たちで建て上げた神殿を見て誇らしく思いましたが、のちに彼らの偶像になってしまったため、神様によって破壊されました。本当の神殿は神様の御ことばとイエス・キリストご自身からなるのです。私たちが御霊によって心一つとなり、心からの賛美と礼拝があるのであれば、そこには本当の悔い改めと喜びがあるのです。