「弟子となる」
ルカの福音書9:18-27;林原億牧師
週報2024.01.14
説教: 「わたしをおいてほかに神はいない」 イザヤ書45:20-25;王鋭伝道師 お知らせ 本日、林 […]
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「弟子となる」
ルカの福音書9:18-27;林原億牧師
説教: 「弟子となる」 ルカの福音書9:18-27;林原億牧師 お知らせ 今年度テーマ: 弟子となり […]
「フェロシップ」
ピリピ人への手紙2:1-8;林原億牧師
説教: 「フェロシップ」 ピリピ人への手紙2:1-8;林原億牧師 お知らせ 本日は今年最後の聖日礼拝 […]
「インマヌエル」
マタイの福音書1:18-25;王鋭伝道師
イエス・キリストは、ことばが肉となって私たちのためにこの世に来られました。イエス様は神の御子であって、私たちの神であります。このインマヌエルの神が、イエス・キリストのお生まれによって、聖書が指し示す通り私たちを罪から贖ってくださるお方です。本日の聖書箇所は、イエス・キリストの降誕について語っているのみならず、人の行いについても示しています。私たちは今日、インマヌエルの神がこの世に来られたことに対してどのように応答していくべきでしょうか。それは、簡単に、純粋に主に従うことです。
インマヌエルとは、神が私たちとともにおられるという意味であります。イエス・キリストは私たちの神であり、私たちを罪から救ってくださったお方です。ユダヤ人は小さな民族であり、小さな国家に住んでいましたが、自分たちの文化や神様から与えられた律法を誇りとして、とてもたかぶっていました。しかし、彼らの住んでいた場所はローマ人の植民地で、当時の外敵に侵略されていたのです。私たちはイエス様によって罪から救われましたが、それは、他人の罪によるものではありません。自分自身の罪から救われたのです。
“「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。」”という預言は、預言者イザヤがユダのアハズ王に対して行った預言です。当時、アラムと、ユダの兄弟関係にあたるイスラエルの国は、結託してユダを攻撃していました。アラムの王とイスラエルの王が結託してユダに攻め入ったとき、アハズ王は彼らより強いアッシリヤを利用し、アッシリヤがアラムを倒しました。その後アッシリヤがユダを虐めたので、ユダはさらに強いバビロニアを呼んだのです。最終的にユダを倒したのはバビロニア王国でした。
私たち人間の性質は、今日に至るまで相手が間違っていると考えます。しかし、聖書にアハズ王が行った罪が指し示されているように(Ⅱ列王記16:2~3)、私たちの最大の問題は、自分自身が罪の中にとらわれているということなのです。私たちが自分自身の罪の中でもがいているのであれば、罪に飲み込まれてしまうでしょう。だからこそ、イエス・キリストが、ことはが肉となって私たちの間に住んでくださったのです。イエス様は私たちがとらわれている罪から解放してくださいました。主イエス・キリストが私たちの間に来てくださったこと、これがクリスマスの目的であります。
本日の聖書箇所は、イエス様の誕生のみではなく、ヨセフとマリヤについてもかかれています。彼らは普通の人でしたが、素晴らしい信仰が与えられていました(19、24、25節)。神様がマリヤに与えたことは、未婚で身籠ることでした。このことは、当時は姦淫の罪にあたる難しいことでした。ヨセフにおいてもたま、未婚で身籠った女性を娶るという、不名誉なことでありました。しかし、彼らが行ったことは信仰に満ちたことであり、裏返すと簡単なことでありました。イエス様が私たちに期待することは、簡単に、純粋に聞き従うことです。ここに信仰があることによって、小さなことの積み重ねが私たちを救いに導くのです。日常生活においては、純粋に神様に従い、神様のために働くのみなのです。そうすれば、神様が大いなることを成し遂げてくださいます。主に従い、主を証ししましょう。
説教: 「インマヌエル」 マタイの福音書1:18-25;王鋭伝道師 お知らせ 今週は第四アドベントで […]
「栄光のイエス」
へブル人への手紙2:1-9;鈴木啓明宣教師
1節に「押し流されないように」とあります。私達を押し流すものは何でしょう。あえて3つあげます。それは怠惰、安定そして自分が聞きたいことしか受け入れないことです。「押し流されないようにする為に聞いたことを心にとめなさい」とありますが「聞いたこと」とは何でしょうか。
7節、御使いよりも高い存在であるイエス様が人となられました。死を経験するためです。死を経験するためには生まれなければなりません。イエス様の死は私達の罪の赦しにつながっています。9節、「御使いよりも、しばらくの間低くされた」とありますが、イエス様がこの世で人として生きた33年のことです。イエス様は罪の誘惑、肉体の疲れ、空腹、悲しみ、痛みそして恥ずかしめや裏切られることを経験されました。天のお父様から見放されました。喜びを経験し不正に怒りを覚えられました。イエス様は神であるのに人としてすべてを経験されました。
教えも多く残されました。また神が私達に臨んでおられる罪のない生き方や神に従順な生き方を示されました。私達がすべき生き方をイエス様が人としてすべてしてくださったのです。聖書に私達は神に似せて造られたとあります。私達は神に従順に生きる目的をもって造られたのです。アダムが罪を犯した時、私達は本来の人の姿から完全にかけ離れてしまいました。しかしイエス様が人として来てくださり、人ができないこと逆に言うとすべきことを全うしてくださいました。そして私達に神の霊をくださることによって本来の生きる姿を取り戻すことができるのです。最初のアダムができなかったことを最後のアダムであるイエス様が全て成し遂げてくださいました。ですからクリスチャンは自分中心の生き方から神中心の生き方に変わるのです。イエス様は処女から生まれました。ですから罪の性質を引き継いでいません。イエス様は100%人間であり100%神です。それが2000年前に起こったことです。
9節、栄光とは、神の本質である神の偉大さ美しさ輝かしさが顕れるということです。正義、慈しみ、犠牲といった神の本質そのものが十字架の上で顕されています。ですから栄光の冠をイエス様は受けたのです。イエス様は死に至るまで天のお父様に従順であられましたから誉を受けました。人はもともと神の栄光を顕す存在でした。しかし罪によってそれが出来ません。私達は自分の栄光を求めます。しかしイエス様を信じる者は神の栄光を求めます。するとイエス様が再臨されたとき私達も栄光の冠を受けます。へブル2:9,「お受けになられた」と書いてあります。私達も神に従順であるならばいずれ冠をかぶせてもらえるのです。それをしてくださるのは主です。神が私達の頭に冠を乗せてくださるその瞬間、今までの私達の苦労、苦しみ、忍耐、それが全て神の栄光にとって代わります。
押し流されないためには、ますますしっかりとイエス様が人として成し遂げてくださったことを心にとめることです。天使はかつて神を人に証してくださいました。2000年前に今度は神がこの世に来てご自分でご自分のことを証してくださいました。その方の名前がイエスです。それが約2000年前です。それをお祝いするのがクリスマスです。
説教: 「栄光のイエス」 へブル人への手紙2:1-9;鈴木啓明宣教師 お知らせ 今週は第三アドベント […]