「サムエルはダビデに油をそそいだ」林原億牧師–2023.09.03


「サムエルはダビデに油をそそいだ」
サムエルⅠ16:1-13;林原億牧師

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  神がダビデを王に選びました。選びは神の主権です。自分の考えで教会の指導者を決めてはいけません。

1.指導が神に従わなければ神から見捨てられます。
1節、神がサウロをイスラエルの王位から退けました。彼が神の御心に従って歩まなかったからです。私たちは教会で王になりたいと思います。しかし奉仕は聖書に従ってしなければなりません。サムエルはサウロが神から見捨てられたことを悲しみました。しかし神は御心にかなった王を見つけたのでサムエルをエッサイの所に遣わそうとしました。しかしサムエルの悲しみが神の仕事の邪魔をしています。私たちは感情によって神の仕事の邪魔をしてはいけません。指導者が失敗しても神が御心にかなう人を起こしてくださいます。教会は立ち上がって神の仕事をしなければなりません。ですら神はサムエルに立ち上がらせます。そして神は権威をもってサムエルをベツレヘムのエッサイの所へ遣わします。神が遣わすのでなければ私たちは動けません。しかし神は王が誰だとは言いません。私たちが神の御心が分からない時、毎日祈り求めなければなりません。私たちの奉仕は神と共にしなければなりません。2節、「サウロが聞いたら私を殺すでしょう。」サムエルは死を恐れます。教会には死を恐れない人が必要です。命を懸けて伝道した先駆者達がいたので福音は広まったのです。神が「主に生贄を捧げに行くと言いなさい。」仰せられました。神は知恵を私たちに示してくださいます。私たちに神にどのように奉仕したらよいのか教えてくれます。3節、「私がその人を教えるからその人に油を注げ。」神のために油を注ぐということは王を神のものとするということです。神の言葉を聞くことが大切です。

2.神が人を見るとき外見ではなく心を見てくださいます。
4節。サムエルがベツレヘムに行くとサウロが彼を殺すかもしれません。しかしサムエルは主に告げられたとおりにしました。教会の発展は人の神に対する従順にかかっています。5節、サムエルはエッサイらを招きます。6節、サムエルはエリアブの容貌や背の高さをみて、この人だと思いました。サムエルは外見を見たのです。神は彼を選びません。彼に希望を託してはいけないのです。王が国の未来を決めるからです。教会も指導者が教会の未来を決めます。人の外見よりも大事なのが指導者に対する神の召しです。神が教会に必要な人を選びます。神が教会の未来をその人に託します。もし私たちが間違った人を指導者に選んだなら教会は何処に向かってしまうのでしょうか。ですから人を見る時外見で見てはいけません。神の御心を求めなければなりません。

3.指導者の選びと油注ぎ。
11節、エッサイが連れてきた子供の中に神の御心にかなった人はいませんでした。しかしエッサには今まさに羊の番をしている子供がいました。私たちが忠実に奉仕をするなら神は私たちに大きなことを委ねます。サムエルはエッサイにダビデを呼ぶように言いました。12節、血色の良い顔をしているとありますが、内なる美しさが外ににじみ出ているという意味です。神が「さあこの者に油を注げ、この者がそれだ。」言われます。どうか神が私たちにこの言葉を発してくださいますように。サムエルはダビデに油を注ぎました。主の霊がその日からダビデに激しく下りました。神は彼と共におられました。奉仕には神の臨在が必要です。奉仕を通じて神が共におられることを人々が見ることができます。私たちは神が共におられる指導者が必要です。神が共にいてくださる奉仕が必要です。どうか主が助けてくださいますように。