「インマヌエル」王鋭伝道師–2023.12.24


「インマヌエル」
マタイの福音書1:18-25;王鋭伝道師

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  イエス・キリストは、ことばが肉となって私たちのためにこの世に来られました。イエス様は神の御子であって、私たちの神であります。このインマヌエルの神が、イエス・キリストのお生まれによって、聖書が指し示す通り私たちを罪から贖ってくださるお方です。本日の聖書箇所は、イエス・キリストの降誕について語っているのみならず、人の行いについても示しています。私たちは今日、インマヌエルの神がこの世に来られたことに対してどのように応答していくべきでしょうか。それは、簡単に、純粋に主に従うことです。
 
インマヌエルとは、神が私たちとともにおられるという意味であります。イエス・キリストは私たちの神であり、私たちを罪から救ってくださったお方です。ユダヤ人は小さな民族であり、小さな国家に住んでいましたが、自分たちの文化や神様から与えられた律法を誇りとして、とてもたかぶっていました。しかし、彼らの住んでいた場所はローマ人の植民地で、当時の外敵に侵略されていたのです。私たちはイエス様によって罪から救われましたが、それは、他人の罪によるものではありません。自分自身の罪から救われたのです。
 
“「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。」”という預言は、預言者イザヤがユダのアハズ王に対して行った預言です。当時、アラムと、ユダの兄弟関係にあたるイスラエルの国は、結託してユダを攻撃していました。アラムの王とイスラエルの王が結託してユダに攻め入ったとき、アハズ王は彼らより強いアッシリヤを利用し、アッシリヤがアラムを倒しました。その後アッシリヤがユダを虐めたので、ユダはさらに強いバビロニアを呼んだのです。最終的にユダを倒したのはバビロニア王国でした。
 
私たち人間の性質は、今日に至るまで相手が間違っていると考えます。しかし、聖書にアハズ王が行った罪が指し示されているように(Ⅱ列王記16:2~3)、私たちの最大の問題は、自分自身が罪の中にとらわれているということなのです。私たちが自分自身の罪の中でもがいているのであれば、罪に飲み込まれてしまうでしょう。だからこそ、イエス・キリストが、ことはが肉となって私たちの間に住んでくださったのです。イエス様は私たちがとらわれている罪から解放してくださいました。主イエス・キリストが私たちの間に来てくださったこと、これがクリスマスの目的であります。
 
本日の聖書箇所は、イエス様の誕生のみではなく、ヨセフとマリヤについてもかかれています。彼らは普通の人でしたが、素晴らしい信仰が与えられていました(19、24、25節)。神様がマリヤに与えたことは、未婚で身籠ることでした。このことは、当時は姦淫の罪にあたる難しいことでした。ヨセフにおいてもたま、未婚で身籠った女性を娶るという、不名誉なことでありました。しかし、彼らが行ったことは信仰に満ちたことであり、裏返すと簡単なことでありました。イエス様が私たちに期待することは、簡単に、純粋に聞き従うことです。ここに信仰があることによって、小さなことの積み重ねが私たちを救いに導くのです。日常生活においては、純粋に神様に従い、神様のために働くのみなのです。そうすれば、神様が大いなることを成し遂げてくださいます。主に従い、主を証ししましょう。