「栄光のイエス」鈴木啓明宣教師–2023.12.17


「栄光のイエス」
へブル人への手紙2:1-9;鈴木啓明宣教師

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 1節に「押し流されないように」とあります。私達を押し流すものは何でしょう。あえて3つあげます。それは怠惰、安定そして自分が聞きたいことしか受け入れないことです。「押し流されないようにする為に聞いたことを心にとめなさい」とありますが「聞いたこと」とは何でしょうか。
7節、御使いよりも高い存在であるイエス様が人となられました。死を経験するためです。死を経験するためには生まれなければなりません。イエス様の死は私達の罪の赦しにつながっています。9節、「御使いよりも、しばらくの間低くされた」とありますが、イエス様がこの世で人として生きた33年のことです。イエス様は罪の誘惑、肉体の疲れ、空腹、悲しみ、痛みそして恥ずかしめや裏切られることを経験されました。天のお父様から見放されました。喜びを経験し不正に怒りを覚えられました。イエス様は神であるのに人としてすべてを経験されました。

 教えも多く残されました。また神が私達に臨んでおられる罪のない生き方や神に従順な生き方を示されました。私達がすべき生き方をイエス様が人としてすべてしてくださったのです。聖書に私達は神に似せて造られたとあります。私達は神に従順に生きる目的をもって造られたのです。アダムが罪を犯した時、私達は本来の人の姿から完全にかけ離れてしまいました。しかしイエス様が人として来てくださり、人ができないこと逆に言うとすべきことを全うしてくださいました。そして私達に神の霊をくださることによって本来の生きる姿を取り戻すことができるのです。最初のアダムができなかったことを最後のアダムであるイエス様が全て成し遂げてくださいました。ですからクリスチャンは自分中心の生き方から神中心の生き方に変わるのです。イエス様は処女から生まれました。ですから罪の性質を引き継いでいません。イエス様は100%人間であり100%神です。それが2000年前に起こったことです。

 9節、栄光とは、神の本質である神の偉大さ美しさ輝かしさが顕れるということです。正義、慈しみ、犠牲といった神の本質そのものが十字架の上で顕されています。ですから栄光の冠をイエス様は受けたのです。イエス様は死に至るまで天のお父様に従順であられましたから誉を受けました。人はもともと神の栄光を顕す存在でした。しかし罪によってそれが出来ません。私達は自分の栄光を求めます。しかしイエス様を信じる者は神の栄光を求めます。するとイエス様が再臨されたとき私達も栄光の冠を受けます。へブル2:9,「お受けになられた」と書いてあります。私達も神に従順であるならばいずれ冠をかぶせてもらえるのです。それをしてくださるのは主です。神が私達の頭に冠を乗せてくださるその瞬間、今までの私達の苦労、苦しみ、忍耐、それが全て神の栄光にとって代わります。

 押し流されないためには、ますますしっかりとイエス様が人として成し遂げてくださったことを心にとめることです。天使はかつて神を人に証してくださいました。2000年前に今度は神がこの世に来てご自分でご自分のことを証してくださいました。その方の名前がイエスです。それが約2000年前です。それをお祝いするのがクリスマスです。