「すべてが新しくなる」齋藤満牧師–2023.11.19


「すべてが新しくなる」
コリント人への手紙Ⅱ5:17;齋藤満牧師

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ローマ人への手紙にもよく記されているように「私たちは救われ、神様の義を着せられ、新しくなった」とあります。それなのに以前とあまり変わらない、喜びがない、救われた気がしないと思う人がいるかもしれません。また、「救われたのなら何をしてもいい」と誤解している人もいます。そういった人たちにパウロは、「私たちの中で新しい命は始まっている、神様の約束の通り栄光の体に変えられる日が来る」と説いています。私たちは救われてもまだ完全体ではありません。イエス様の再臨を待ちながら、完成されるまでの間で揺れ続けています。では私たちはどのように生きるべきでしょうか。
 
一、福音とは何か
 救われた、信仰によって義と認められた、とはどういう意味でしょうか。宗教改革の時代、ルターやカルヴァン、ツヴィングリらは「信仰義認は体の変化ではなく、天においてあなたの名前が“命の書”に書き換えられたことだ」と表現しました。聖書にはクリスチャンになることで感じられる3つの喜びが書かれています。「(ローマ5:2)神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」「(ローマ5:3)それだけでなく、苦難さえも喜んでいます。」「(ローマ5:11)それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。」
 練られた品性とは、試練で試された信仰の人格であり、その人格が希望を生み出します。私たちは日々の苦難の中で練られた品性・人格を通して、希望が神の愛に根差していることに気づくのです。そして私たちは愛を与えてくださっている神様ご自身を喜ぶようになります。しかしこの神様の愛を見失うと、私たちは疲れきってしまいます。
 
二、閉塞感
 クリスチャンになったのに何も変わらない、ルールが増えてむしろ苦しくなってしまった、そういった閉塞感を感じている方がいるかもしれません。アメリカで有名なティモシー・ケラー牧師は、著書『センターチャーチ』の中で「私たちが福音から離れるとき、簡単に律法主義と無律法主義に陥ってしまう」と言っています。律法主義は、ルールを守り自分の努力で良いクリスチャンになろうとする考え方です。無律法主義は、聖書を真理として認めず、救われているのだから何をしてもいいという考え方です。これらの考えはいずれも、私たちに福音の喜びや神の愛を忘れさせてしまいます。こういった考えに陥らないよう、私たちは新しい人生をどのように歩むべきでしょうか。
 
三、福音に立ち返る
 (コリントⅡ5:17)この言葉が送られたコリント教会も、律法主義・無律法主義の人が多くいました。キリストに倣うものがクリスチャンであり、そこには喜びと愛があります。(ローマ6:4)私たちが洗礼を受けたとき、古い自分は死んでいるとパウロは言っています。死人には律法が適用されません。ですから私たちは律法の呪いから逃れ、新しい命になって甦ることができるのです。
 (コリントⅡ5:14)私たちはもはや自分のために生きているのではありません。福音は私たちの人生の中心であり、私たちが生き残っている目的です。あなたの口を通して、隣人に神の愛を伝えるためです。これはノルマではなく主の愛に駆り立てられて行うものです。キリストの愛に立ち返るならば、私たちは神様に応えたいと変わっていくでしょう。