「ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ」王鋭伝道師–2023.09.17


「ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ」
サムエル記Ⅰ20:12-17;王鋭伝道師

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12・13節、ヨナタンの父はサウロ王です。サウロはイスラエルのために命を落としました。彼はイスラエルを愛しているように見ます。しかしサウロ王とダビデの対立を見ればサウロはイスラエルを愛していたのではなく支配することを愛していたことが分かります。ダビデの功績はサウロ王を上回っていました。サウロがイスラエルを愛しているのであればダビデの様な将軍が増えることはよいことです。しかしサウロはダビデを脅威と思い殺そうとします。人間は妬みを持っています。教会でも同じような事が起こります。私たちは教会を愛しているかそれとも支配することを望んでいるのでしょうか。
サムエルが神の裁きをサウロ王に伝えた時、サウロは「どうぞイスラエルの長老と民の前で私を高く上げてください。それによって神をよく礼拝することができるから。」と言葉を返しています。これでわかるのは、サウロ王は神の御名を高く掲げようとしたのではなくて自分の名を広く伝えようとしたのです。サウロは神を利用することを愛していたのです。私たちは自分で吟味しなければなりません。
ヨナタンはすべてのことについて神に従った人です。
ヨナタンはサウロ王の継承者です。歴史上王位を争って殺しあうのは珍しくありません。しかしヨナタンは神の御心を知ったとき「主が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。」とダビデに言っています。神の御心であれば王位はダビデが継承してくださいということです。ヨナタンは神を愛していました。神の御心と自分の思いが衝突する時、私たちはどうすれば良いでしょう。苦しみを伴うかもしれません。イエス様はゲッセマネで「主よこの杯を取り去ってください。しかしあなたの御心の様になさってください。」と祈りました。自分の利益を捨てなさいと言われた時、私たちが神を愛しているのか神を利用しようとしているのかがわかります。私たちは神に従い自分の思いを棄て去りましょう。イエスキリストこそが全てです。
私たちは心を一つにして神を仰ぎ見るということです。
14-16節、ヨナタンはダビデではなくダビデの家と永遠の契約を結びます。内容は自分の子孫のことです。旧約では永遠の命を現すとき子々孫々という言葉が用いられます。神の御名という言葉が出てきます。この契約は主の御名によって結ばれた契約です。ヨナタンはある意味ダビデや人間を信頼していなかったのです。ヨナタンは神の御名を仰ぎ見たのです。ですから「ダビデが私に」ではなく「主の恵みを私に施してください」といています。私たちが契約を結ぶとき神を仰ぎ見なければいけません。保証を与えてくれるのは神であることをヨナタンは知っていました。私たちに対する保証はイエスキリストの引き裂かれた体と流された血潮によって交わされた契約です。人に望みを置くなら失望します。ヨナタンはサウロ王、ダビデ、自分自身に頼りませんでした。ヨナタンは神の恵みを仰ぎ見たのです。心を一つにして神を仰ぎ見ましょう。人は契約に背きます。しかし神はこの契約に背くことがありません。神の恵みと真そして神の愛こそが私たちの救いの保証です。これは奪い去られることはありません。
17節、ダビデとヨナタンは王位をめぐってライバル関係にあります。しかしヨナタンが表したのは完全な愛です。ヨナタンはイエスキリストを予表しています。ヨナタンの愛こそがダビデの生き残る保証でした。イエスキリストの愛こそが私たちの保証です。イエスキリストは自分よりも私たちを愛してくださいました。イエスキリストの尊い血潮によって私たちと結んでくださった契約によって私たちに永遠の命がもたらされました。私たちはこの愛を活かさなければなりません。キリストに倣う者とさせていただきましょう。神を愛して神を利用することを愛してはなりません。イエスキリストの愛の内にあって平安と喜びを活かしましょう。