「イサクを献げる」山口陽一牧師–2023.09.10


「イサクを献げる」
創世記22:1-24;山口陽一牧師

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  アブラハムの生涯は私たちの信仰生活の原型です。21章では、待望の約束の子イサクが生まれ、その名は「彼はわらう」という意味ですが、本当の深い喜びがアブラハムとサラに与えられました。イサクが生まれたことにより、ハガルとイシュマエルは家を追い出され、荒野で死にそうになりましたが、神様はイシュマエルの叫びも聞かれ、荒野に井戸を備えられ、生き延びてアラビアの祖先となりました。アブラハムは海沿いのペリシテ人の地に長く住み、イサクはそこで育ちました。
 
 イサクが青年になった頃、神様はアブラハムに「イサクを全焼のいけにえとしてわたしにささげなさい。」と命じました。イサクは神様によって奇跡として与えられた子、イサクからアブラハムの子孫をおびただしく増やすと約束された子です。アブラハムは神様が告げられた場所、モリヤの地へイサクを連れて出掛けて行きました。この場所は、後にエルサレムの神殿が建てられた場所です。
 
 出発してから3日目、神様に告げられた場所がはるかかなたに見えた場所から、アブラハムはイサクだけを連れて、全焼のいけにえのためのたきぎをイサクに背負わせ、火種と刀を持って進んで行きました。イサクはささげもののいけにえがないことに疑問を持ちましたが、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる。」この答えをきいて進み続けました。
 
 ここにかかれている内容は、アブラハムとイサクの礼拝についてです。神を礼拝するということは、自分の最も大切なものを神にささげること、神の御声に聞き従うことです。ただし、いけにえをささげることが自己満足や自分を誇ることになってはなりません。いけにえは神が備えてくださるのです。ここには、アブラハムの信仰の頂点があります。
 
 二人が神に告げられた場所に到着し、祭壇を築き、アブラハムが我が子イサクを全焼のいけにえとしてほふろうとしたそのとき、神は一頭の雄羊をイサクの代わりに備えられました。それは、アブラハムが神の命令に従い、イサクをささげ、イサクもそれに従ったからです。最初からイサクの代わりを備えていてくださったと思ってはなりません。アブラハムはイサクをささげ、イサクも従ったのです。
 
 ここから私たちは、神を恐れること、神の御声に聞き従うという信仰を学び、礼拝とは何であるかということを教えられました。私たちが今、神に礼拝をささげ、神が私たちの礼拝を受け入れてくださるのは、神がご自身のひとり子を唯一の贖いの備えものとしてささげてくださったからです。「主の山の上には備えがある」とは、このことです。
 
 神が私たちに試練をお与えになるのは、私たちを愛しているからであり、本当の信仰の高みへと引き上げたいからです。神の備えは先々にまて至るものです。神の御声に聞き従って生きることは、子子孫孫の祝福の基となることでしょう。私たちの礼拝の根拠は、イエス・キリストにおいて神が既に備えてくださいました。このことを喜びとしましょう。