「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」王鋭伝道師–2023.08.20


「アブラハムが生まれる前から、
ヨハネの福音書8:48-59;王鋭伝道師

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  1世紀のユダヤ人の信仰はこの世的なものでした。彼らは、神が永遠のお方であることを忘れていました。そのようなユダヤ人にイエス様は「アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです。」と仰いました。時間を超えた永遠の神であることを宣言されたのです。私たちもイエス様が時間と空間を超えてこの世界を治めておられることを忘れないでしょか。

 52、53節。ユダヤ人がイエス様をけなす意味で「あなたはサマリア人で、」と言いました。この言葉を言ったのはキリストを信じたユダヤ人です。彼らはいとも簡単に信じ簡単に信仰を捨てました。ですからイエス様は彼らに「あなた方は神を知らないとい。」と仰いました。

 この時代のユダヤ人の信仰はこの世に染まっていました。彼らは永遠ということを信じていません。永遠を信じなくなった時、この世にあるものしか目にうつらないでしょう。この世に染まった信仰には二種類あります。一つは低俗的なものです。この世は欲の限りを尽くしています。律法学者は立派に見えますがこの世的でした。その当時パレスチナではローマやギリシャ文化が流行っていました。彼らは永遠の神を忘れ、この世の事に目が向いていました。今日のキリスト者もこの世のものに目が向いていないでしょうか。この世の物だけが目的になってしまったらそれは偶像です。また高尚な信仰もあります。このような人たちは自分を崇高な人だと思っています。彼らが考えているのはユダヤの復興です。これは悪いことではありません。しかしこの世的なことです。これらを最終的な目標としたときそれは偶像になります。ユダヤ人は神の国は永遠なるものであることを忘れていました。異邦人の光になることを忘れていました。イエス様が天に昇られる時、弟子たちが関心を持っていたのもユダヤの復興でした。しかしイエス様は弟子たちに地の果てまで御言葉を述べ伝えなさいと仰いました。ユダヤ人の信仰の視野は狭かったのです。私たちの信仰の視野も狭くなっていないでしょうか。私たちも信仰を政治的な目標の手段としていませんか。一見大きなことに見えます。しかしこれらのことはこの世に属しているもので朽ちていくものです。今日の私たちもなんら変わりがありません。

 55-58節、当時のユダヤ人に永遠の命の概念がありませんでした。ですからイエス様はユダヤ人に「アブラハムが生まれる前から私はあるのですと。」宣告をします。この言葉を直接的に翻訳するなら、「アブラハムがアブラハムになる前に私はある者である。」でしょう。「なる」と「ある」の対比です。アブラハムはアブラハムに「なる」のです。主イエスは、わたしは「ある」といいます。初めに言葉があった、言葉は神であった。言葉は神とともにあった。イエス様は父なる神と聖霊なる神と同じ真なる神です。「わたしはある。」という言葉は、神がモーセにした「わたしはある。」という宣言と同じです。これこそが私たちの神です。イエス様が私たちにもたらしてくれる命と幸いは永遠のものです。ですから私たちはこの世のことにだけに目を向けてはいけません。この世のことが私たちの最終的な目的となった時、私たちの神の御国のことを忘れた時、神が私たちに永久の幸いをもたらしてくださることを忘れた時、私たちは主イエスキリストを軽んじているのです。

 当時のユダヤ人はイエス様をいとも簡単に信じました。しかしこの世に染まった信仰は風が吹けば消えてしまいます。手のひらを返すようにイエス様をけなし悪霊に取りつかれていると非難しました。イエス様がご自分のことを神であると宣言した時、イエス様に石を投げつけようとしました。今日のキリスト者の信仰も同じです。どうぞ聖霊様が神のみ言葉で私たちを照らしてくださいますように。私たちの信仰がこの世に染まてないか探ることができますように。吹けば消えてしまうような信仰になっていないか探ることができますように。私たちが従うべきは永遠なる神です。神と永遠の命につながる道を共に歩むのです。