「決して罪を犯してはなりません」王鋭伝道師–2023.07.30


「決して罪を犯してはなりません」
ヨハネの福音書8:1-11;王鋭伝道師

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 今日の聖書箇所は、霊的な弱さを覚えている人、罪におぼれている人に対して、どのように憐れみの心をもって対応するべきかを教えてくださっています。私たち自身も弱さを覚えた罪人です。イエス・キリストによってのみ、神様の恵みによってのみ、その憐れみによってのみ、私たちは救われるのです。主が私たちを憐れんでくださったのですから、私たちも他の人に憐れみの心をもって接するべきなのです。決して罪を犯してはなりません。
 
3〜6節
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられた女を連れてイエス様の前に来ました。婦人は酷い罪を犯しましたが、彼らは旧約聖書の律法に従って裁くためではなく、イエス様を試そうとして連れて来たのです。律法学者とパリサイ人は聖書のことを非常によく知っている、いわゆる専門家であります。ですから、自分を義人だと自認し、他の人を罪人だと思って見下しているのです。律法によれば、姦淫の罪を犯した者は殺されなければなりません。もし、イエス様が律法に従って殺すよう告げるのであれば、彼らはローマ人のところへ行って、イエス様にこの婦人を殺すよう命じられたと伝えるでしょう。当時イスラエルの主権はローマ人にあったので、ローマ人の許可なく人を殺すことはあり得ないのです。しかし、殺してはならないと言ったら、イエス様が律法を守らないことを咎めるでしょう。このように人をおとしめたり、社会や国を破壊しようとする人は、自分は義人であると自認する、いわゆる義人のフリをした人なのです。義人はイエス・キリスト以外一人もいません。ここでは人間の心がどれほど忌まわしく、残酷であるか、そして、罪の普遍性についても教えています。
 
7〜9節
当時のパリサイ人や律法学者たちは、10人の内1人が罪を犯した場合、罪を犯していない9人も罪を犯した人に巻き込まれると考えていました。彼らは自分が罪のない人であると思っていたのです。ところが、祭司が多く、聖い国であるイスラエルの中で、姦淫の罪を犯した人が出て来ました。イエス様は、この婦人の罪に巻き込まれたと思う人が彼女に石を投げるよう、人々に言うと、年長者たちから一人一人、その場を離れて、イエス様がひとり残されました。旧約聖書においては、エルサレムがソドムのような町であると何度も書かれています。しかも、ここは宮の中です。今日の私たちも、外見上はマシなものかもしれませんが、外で犯している様々な罪を、教会の中でも犯しているのです。それは、当時のパリサイ人のように偽善者になっているということです。しかし、感謝なことに、イエス様はさばくために来られたのではありません。
 
10〜11節
イエス様は、この婦人に対して礼儀正しく話しています。私たちもこのようにあるべきです。たとえ相手が罪の中にある人であっても、礼儀正しく接するべきなのです。私たちには人をさばく権利も、人を罪に定める権利もありません。また、自分を罪に定めてもいけません。イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。」と、言われました。イエス・キリストがこの世に来られたのは、ご自分の命を捨てて、私たちのような罪人を救うためです。以前は私たちも罪におぼれていましたが、イエス様によって死から救われました。私たちのすべての望みはイエス様の憐れみによるものです。イエス様は再び来られ、その時は罪に定められます。ですから、主を求めることができるうちに、主を求めましょう。私たちが救われるのはキリストによってのみ、信仰によってのみです。聖霊は私たちを助け、再び罪を犯さないよう導いてくださいます。