「祝福を受ける家」上辻洋平牧師–2023.07.09


「祝福を受ける家」
詩篇128:1-6;上辻洋平牧師

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  私たちは神様の子どもとして多くのことを学ばなければなりません。主を恐れるということは、神を神として敬うということです。イスラエル人は神様の創造、偉大さ、威厳を知っていたので、神を恐れ敬っていました。神様は神様を敬う人に対して恵みを施したいと思っています。ですから神様を恐れる人は、人生の歩みの中で神様の導きと恵みを経験するのです。神様は聖書のことばでもって私たちの前の道を照らし、行くべき道を教えてくださいます。そして、必要なときに聖書のことばでもって私たちを養ってくださいます。また、御霊においても私たちがどのような行動を取るべきか教えてくださいます。私たちが御霊の導きに従うのであれば、益々イエス様に似た者と変えられていくのです。クリスチャンにとって、聖書に親しむことは非常に大切なことです。聖書をたくさん読むのであれば、神様の御こころについても知ることになります。本日の聖書箇所は、神様が私たちに与えてくださった祝福と約束について語られています。
 
1.すべて主を恐れ、主の道を歩む者は幸いである
  私たちが幸いに与りたいのであれば、主を恐れることです。ここでいう「恐れ」とは、私たちが神様の聖さに直面したときに自然に抱く畏敬の念を意味します。神様の聖さは私たちの想像を遥かに超えています。ですから、本当の意味で神様の聖さ、偉大さを知っているのであれば、自分の汚れた姿や自分の小ささに気づき、神様を直視することを恐れるはずです。それによって私たちは神様を恐れかしこむのです。主を恐れることは、主に仕え、主にすがるということに繋がります。神様を恐れている者は神様を中心とした生活を送ります。心を尽くして神様に仕える者こそ、神様の祝福に与ります。  
 
 神様に仕えるということは、神様に捧げることも含みます。捧げるとは、物質的に捧げること、自分自身を捧げることの両面から考えることができます。私たちはどのような心構えで神様に捧げているのでしょう。主を恐れる人は自分の持っている最も良いものを捧げようとします。アベルは神様のことを敬っていたので、最上のものを捧げましたが、カインは地の作物から適当なものを持ってきました。神様はアベルの捧げ物に目を留められたので、カインは憤り、弟アベルを殺害しました。カインの正しくない心は最初から神様に見透かされていたのです。神様を敬わない人は徐々に世の中の考え方に影響されて、悪いことを悪いことと思わなくなってしまうのです。主を恐れることは悪を憎むことです。幸いに与る人とは、主を恐れ、主の道を歩む人たちのことです。
 
2.神様を敬う者はその家庭も幸いに与る
 神様を恐れる人は、配偶者と共に神様に仕えたいと願います。そして、そのような家庭は幸いに与ります。しかし、幸いに与ったからといって苦難に直面しないわけではありません。苦難を恐れず、永遠の命に希望をもち、イエス・キリストの再臨を待ち望むことがクリスチャンの歩みであります。神様を敬い、幸いに与っている人は、自分の勤労の実を食べる幸いに与っています。自分の勤労の実を食べることができるのであれば、主が子どもを養うことを託されます。私たちが子どもを養うのは神様のためだからです。神様は、ご自分を恐れる者に子どもを養うことを託されます。
 
 子どもに恵まれて、平和な時代に平安な生活を送ることは、多くの人が望む生活ではないでしょうか。そして、神様も私たちにこのような生活を与えたいと願っておられることを、聖書を通して知ることができます。

 主を恐れ、主の道を歩む者は幸いであります。神様を神様として敬い、神様を愛している人は、他の人も愛するようになります。それによって、私たちに恵みを授けてくださる神様を経験することができます。