「カナの婚礼」林原億牧師–2023.07.02


「カナの婚礼」
ヨハネの福音書2:1-11;林原億牧師

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  カナの婚礼でのきせきは、イエス様が地上で行われた初めてのきせきである。神のみがきせきを実行でき、それは主の御心が行われ、主の栄光が顕されるためである。即ち、きせきとは、人間の必要を満たすためではなく、私たちが願うから起こるのではない。

主の御心は人間の必要よりも高い(1-5):ヨハネの福音書の書き方は創世記と共通点がある。「三日目」とあるが、実際にヨハネは前後の七日間で起こったことを描いており、これは世が創造された七日間を連想させる。話は変わるが、ユダヤ人の風習によれば、婚礼にて酒が尽きるのは大変な失礼に当たるが、残念ながら酒は尽きてしまった。マリヤはイエス様に助けを求めたが、イエス様は「あなたは私と何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません」と言われた。マリヤは必要について訴えたが、それはイエス様が気にかけていることではなかった。あのマリヤでさえも、イエス様が救い主であり、主が言う通りに行うよう、学ぶ必要があった。そこで彼女は「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言われた。私たちも、自分の必要ばかり訴えるのではなく(そもそも神様はご存じである)、神様が私たちに何をして欲しいかを考える必要がある。

主が今までのいのちを超えた、新しいいのちをもたらす(6-8):そこでイエス様は、ユダヤ人が律法の要求で、手や足を洗うために使われる石の水がめを水で満した上で、「今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われた。今までの聖書解釈は、汲んだのは「水がめの水」であったが、最近は水がめの水ではなく、「井戸の水」を汲んだという言い方もある(「汲む」の原語は「井戸から汲む」意味が込められている)。この言い方によると、即ち井戸から汲まれた水は、律法とは関係ないことを指す。私たちのいのちも、律法によってではなく、イエス様を通してのみ清められ、新しくなる。

信仰によって神様の栄光を見る(9-11):イエス様は婚礼で最初のきせきを行った。ユダヤ人はメシヤこそ新郎であり、メシヤが来た時には盛大な婚礼があると信じている。しかし、どの新郎も婚礼のために万全な準備を行ったところで見落としはあるだろう。しかし、イエス様は私たちが求めている以上に備えてくださり、多くの人の祝福となってくださった。同様に、私たちも(自分自身、そして教会)この世の祝福にならないといけない。もし私たちが自分自身を備えないのであれば、「酒がありません」という状態になるだろう。一方で、しっかり主に従うのであれば、平凡な私たちでも、良いぶどう酒となり、この世の祝福になる。

長年教会に通っていても、奉仕をささげていても、神様の栄光を見れているとは限らない。しかし、私たちがイエス様に自身を委ね、信仰を持って従うのであれば、主が私たちを良いぶどう酒に変えてくださる。そして、私たちの教会に与えられたビジョンも、きっと一つずつ成就するのを見れるだろう。