「一つになって共に住むこと」林原億牧師–2023.06.04


「一つになって共に住むこと」
詩篇133:1-3;林原億牧師

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神を愛し兄弟姉妹が互いに愛し合うことが教会の証となります。しかし罪人である私たちの間では争いが起こります。イエス様がこの世に来られたのは神と人の関係や人間関係を再建するためです。それは自分の力でできません。十字架が必要です。

イスラエルの大人の男性は、1年に3回エルサレムに行きます。都の上りの歌には重要な意味があります。①エルサレムの宮に向かって行くのです。私たちの心が神に向かって行くということです。②信仰には代価が伴います。彼らは収入の十分の一を携えてエルサレムの宮に行きました。③他の人と共に歩むということです。都のぼりの歌を歌いながら神に心を向け、詩編を歌いながらお互いに励ましあうのです。エルサレムへの道のりで問題が起こっても私たちの祝福となり、心には感謝と賛美で一杯になります。

1節、「なんというしあわせ、楽しさであろう。」とは祝福のことです。人の目線から教会を見るなら多くの文句でてきます。しかし神の目線から教会を見るなら神への感謝の言葉がでてきます。兄弟たちが一つになって住むとは、神からの目線から見たビジョンです。私たちが礼拝で賛美をしている時、心が神に向かっているでしょうか。神の目線から兄弟姉妹を見ているでしょうか。神に向かって歌う賛美であるなら、私たちは心の中で都上りの道に入っています。神が私たちを愛してくださったのですから私たちは神を愛すとともに兄弟姉妹を愛さなければなりません。詩132編は神との関係の回復、133編は人間関係の回復、134篇は礼拝の回復。これは私たちの罪を可決し、人との関係を解決し、神の前に連れ戻そうとしています。私たちが礼拝に行くとき、もし兄弟に憎まれていることを思い出したなら、供え物を置き、行ってその兄弟と和解しなければなりません。それから御心にかなった礼拝を捧げることができます。聖書の真理に従い、人との関係を重んじるのであれば、「なんという幸せ、なんという楽しさであろう」と神は仰います。

2節、兄弟姉妹が共に住むという祝福は祭司に油を注ぐようなものです。祭司は12部族の内に住んで神と人に仕えます。共に住むことの本当の意味は、他の兄弟に仕えることです。あなたの存在が他の人の祝福になります。本当の祝福された生活とは私たちが人々に仕えることです。奉仕について考えます。①御霊の働きです。人間的な方法で奉仕をするのではなく、助け主の御霊に頼り奉仕をするのです。②奉仕は人に祝福をもたらします。兄弟姉妹全員が祝福にあずかることを願うなら、あなたが祝福にあずからないはずがありません。③奉仕を通して私たちは神を経験します。ですから奉仕をすることを求めましょう。

3節、祝福を例えて言うならヘルモン山の露に似ています。ヘルモン山とエルサレムは北と南に離れています。遠く離れていますので露がエルサレムに降り注ぐことがありません。これは例えです。本当の露は兄弟たちが一つになって住むことです。教会が互いに愛し合うとき、神の約束してくださった祝福が教会降り注ぐのです。そこに干ばつがありません。教会の中はヘルモン山の露がいっぱいです。互いに愛し合うなら神は祝福をあなた方にもたらします。自分の力ではなく、神の助けを求め、互いに愛し合うことを求めるならば、神はあなた方を他の人の祝福とならせてくださいます。

3節後半、神は私たちに人を助け共に住み愛し合う使命を与えました。これは難しい聖書の教えだと思います。ですから神を頼りましょう。人々を愛するなら神を経験するでしょう。私たちに信仰が与えられますように。人々のことを考え、祈り、使えることができますように。