「神を大いに喜んでいる」王鋭伝道師–2023.05.21


「神を大いに喜んでいる」
ローマ人への手紙5:6-11;王鋭伝道師

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本日のテーマである「神を大いに喜ぶ」とは、別の訳では「神を栄光とする」と訳されています。私たち人間には栄光が必要ですが、それを見出すことができません。ですから、たとえ苦しくても自分の栄光のために代価を払って自分を良く見せようとします。今日の聖書箇所は、私たちが神を大いに喜ぶことができるのは、ただイエス・キリストの内にある時のみである、ということを教えています。私たちがイエス・キリストの内にあるならば、神様を私たちの栄光とすることができます。これこそが本当の栄光であって、真なる喜びなのです。
 
私たちは聖書を通して救いがあることを見出すことができます。真なる和解、真なる救いは、私たちが新しい身分を得て初めて体験することができるのです。人と人は和解したとしても、傷つくと傷痕が残ります。また、人から助けられたとしても、その後の関係性や身分が変わることはありません。しかし、主イエス・キリストの内にあって、神様から来る救い、和解はとは、イエス・キリストの栄光に満ち満ちた神の子なる身分か与えられることなのです。
 
神様はご自身の知恵の内に、聖さ、正しさの内に、私たちを完全な者に造ってくださいました。人はもともと栄光に満ち溢れていました。全ての被造物をアダムに委ねられ、彼には美しい妻、エバもお与えになりました。けれどもアダムとエバが神様に背いたために、エデンの園から追放され、神様の栄光を失ったのです。私たち人間はこの世をさすらう人となりました。人は栄光を経験したことがあるので、栄光を探し求める性質を持っています。良い服を着たり、良い車に乗ったり、このような虚ろなものから栄光を見出したがるのです。しかし、どんなに尊い人間であっても罪人の結末は死です。ですから、神様はキリストを遣わして私たちを救われました。私たちは正しい者でも情け深い者でもありません。神様に敵対する罪人なのです。そのような罪人である私たちのために来てくださるほど、神様は私たちを愛してくださるのです。主は私たちがまだ敵であった時、私たちのために死んでくださいました。これこそが、神様が私たちに与えてくださったキリストの内にある救いであり、真なる愛なのです。
 
イエス様は私たちが担うべき代価を担い、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そして、イエス様を信じて頼る者は、キリストをその身に着ることができるようになったのです。ですから、神様の目の内にあって、信じる私たちは義人となり、罪人の身分からイエス・キリストの内にある新しい身分に変えられました。この世の地位や名誉など、神の子としての身分と比べたら取るに足らないものです。神の子どもという尊い身分があるのであれば、私たちはもはやこの世的なものを気にする必要がなくなります。主イエス・キリストの救いは神様と和解させるだけではなく、私たちを神の家の人とし、神の子としてくださいます。
 
主イエス・キリストは、私たちのいのちを救うために十字架でその血を流され、辱めを受けました。偉大なる神の子であり、神ご自身であるにもかかわらず、私たちを救うために最も卑しい姿で来られ、謙って辱めを受けられたのです。何もできない罪人の私たちは、イエス・キリストの御名を信じることによって義と認められ、キリストを身につけ、神の子とされるのです。私たちはキリストの内にあって神を大いに喜び、神が私たちの栄光となります。神様はキリストを通して私たちをご覧になり、私たちもキリストを通して、恵みなる眼差しでこの世を見るのです。世のものは朽ちていきますが、同時に恵みがあることも認識できます。そうすると、今ある苦しみが一時的なものだとわかります。神様は私たちの栄光です。この世の栄光は過ぎ去りますが、キリストの内にある栄光はいつまでも残ります。このような栄光こそか私たちに大いなる喜びを与えるのです。