「ヨセフと兄弟たち」林原億牧師–2023.05.07


「ヨセフと兄弟たち」
創世記45:1-15;林原億牧師

錄音

錄影


今日の聖書箇所からは、いくつかの気づきが与えられている。1)人間は傷つけられても、赦すことができる。2)人間は他人の祝福になれる。3)人間は自己中心ではなく、他人のために犠牲を払える。4)人間は自分のためでなく、他人を全うできる。5)人間は常に神様により頼まなければならない。他人を赦すこと、それは自分を赦すことでもある。神様はヨセフを用いて、彼の一家を救い、エジプト全土を救い、エジプトの近隣諸国をも救った。この壮大なる神様のご計画に驚きを禁じえない。

I. ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かす(1-4):
a. ヨセフは自分がエジプトに奴隷として売り飛ばされた出来事を経験し、大いに傷ついたであろう。教会でも多くの兄弟姉妹が傷を抱えながら奉仕をしている。しかし、傷を抱えたまま奉仕することは、他の兄弟姉妹を傷つけることに繋がる。大切なのは、負った傷を神様の前に持っていくことである。次にヨセフは自分のことを兄弟たちに明かすが、その際彼は「自分を制することができなくなって」とある。きっとヨセフは兄弟を思いやり、関係を回復させたい思いがあったのだろう。彼は「声をあげて泣き」、全ての人が彼の声を聞いたとある。頭の中では、誰にも見られたくないと思っていたが、感情的にそれを押さえることができなかった。
b. 「私はヨセフです」という言葉は、兄弟たちが最も聞きたくない言葉であった。彼らは驚いて返す言葉がなかった。私には仲の良い牧師の友人がいる。彼は昔はかなりのいたずらっ子であった。真夜中に神学校の院長の部屋の外で院長の名前を叫び、彼が眠れないようにしていた。後に宣教師となった彼は、教会でメッセージを語るようになった。ある日教会に来てみると、第一礼拝は彼が担当し、第二礼拝は当時の院長が担当することに気づいた。院長に会うのは気まずいと思ったのか、第一礼拝を終え、彼はその場を立ち去ろうとした。しかし、背広を教会に忘れ、取りに戻ると、院長が背広を置いている場所に座っていた。会うと気まずい人ほど、良く出くわしてしまうものである。
c. 続けてヨセフは「どうか私に近寄ってください」と言った。人間関係の良し悪しは距離に現れる。関係が悪ければ距離が取られ、親密であれば距離が縮まる。ヨセフは兄弟と仲直りしようとしていた。過去の経緯を考えると、お互いに認め合うことは難しいが、神様であれば、定められた時・場所においてそれが可能となる。そして、ヨセフのこの行いは、兄弟を赦すと同時に、神様の働きを全うすることも意味していた。多くの時、私たちは神様ではなく、自分の心の声に従ってしまい、御心を行えない時がある。しかし、ヨセフは神様のご計画を知っており、この計画に沿って歩もうとした。

II. 神様の計画とイスラエル民族の関係性(5-13):
a. ヨセフは「私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません」と語り、兄弟を慰めていた。ヨセフにはマナセとエフライムという二人の子供がいる。マナセは「忘れ去る」、エフライムは「繁栄する」という意味が込められている。即ち、神様によって、過去に経験した苦しみを忘れ去り、苦しんだ土地において繁栄する、という意味である。ヨセフは、神様が大飢饉の中において、「大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるため」に、ヨセフを先に遣わしたことを理解していた。
b. 聖書は例えの中で良く「籾殻」を用いる。ご飯を食べるには、脱穀して米にする必要があるが、分量的には「籾殻」の方が残る米よりも多い。人間は多くの場合、より多く見える方を選んでしまう。しかし、籾殻が風によって吹き飛ばされるように、私たちが下す決断もそのような結末を迎えることが多い。教会も、神様の御言葉に根差していないのであれば、どれほど大きくても、脆く崩れ去るであろう。
c. ヨセフは兄弟たちに「急いで私の父上をここにお連れしてください」と言った。何度も子供たちに騙されたヤコブは当然エジプトに来たいとは思わないだろうが、神様の御心が臨まれる時、やはり神様に聞き従う他ない。自分の頭のみで考える時、私たちは神様の御心を知ることができない。しかし、私たちが神様の道を歩もうとするのであれば、また神様のご計画を認めるのであれば、その時初めて神様の御心を知ることができる。

悔い改めの道こそ、私たちが歩むべき道である。そうして初めて、教会の将来の発展が可能となり、神様に大いに用いられる。一人一人がへりくだり、柔和な者とさせて頂こう。