「喜んで神を礼拝する」王鋭伝道師–2023.04.30


「喜んで神を礼拝する」
詩篇122:1-9;王鋭伝道師

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イスラエルの人々は紀元前500年頃から今に至るまで世界各地に散らばっていました。しかし神様は、過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りはエルサレムの宮で礼拝を捧げるよう命じられ、イスラエルの民はエルサレムまでの険しく、暗黒で、危険に満ちた道を上って帰って行ったのです。そのような代価を払ってまでエルサレムに上るのは、神の家にこそ真なる礼拝があるからです。今日の聖書箇所は都上りの歌であり、私たちに礼拝を捧げることを促す歌でもあります。礼拝とは、苦難の後の喜び、離散した後の結合、困窮した後の繁栄をもたらすと、教えています。
 
1.苦難の後の喜び(1〜2節)
現代人の私たちが登山をするとしても、麓までは電車や車を使い、服装に至っては完全防備でありながら、下山するとその場に倒れこむほど疲労困ぱいになります。数千年前のイスラエルの人々はエルサレムまでの険しい道を徒歩で、麻の衣を着て、藁で編んだ靴を履いて、盗賊が蔓延る道を食糧を背負い、死をも覚悟しなければならない程に困難な道を喜んで上って行くというのです。それは、真なる礼拝は神様が指定した場所でしか捧げることができないからです。千辛万苦の後にエルサレムに足を踏み入れた時はこの上ない喜びに満ち溢れます。これこそが真なる礼拝であり、御こころにかなった礼拝がもたらす真なる喜びなのです。
今日の私たちにはイエス・キリストがいます。イエス様は神であって真の神殿であります。私たちが行くべきところは神の教会です。教会には真の礼拝があり、教会に来てこそ味わえる喜びがあります。そして、これこそが神様の恵みであります。
 
2.散りばめられた後の結合(3〜5節)
イスラエル人は世界中に散らされたゆえに、様々な顔ぶれがありますが、心の中の結合は他の民族には成し得ないものです。それは、エルサレムのように多くの石の城壁に囲まれ、それらが互いに繋がって一つの町となっているのと同じです。イスラエル人は世界中に散りばめられましたが、一つなる民族なのです。散らされた地の言語を話し、外見もその地の人のようになりました。しかし、神様は一つ、聖書は一つ、エルサレムは一つなのです。
神様が人を造られたとき「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と言われ、そのようになりました。イエス様は私たちに「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と言われました。ですから、今日のクリスチャンも世界中に散らばる必要があります。たとえ散らされた地の言語を話し、外見が変わっても、イエス・キリストを信じ、つき従う私たちは兄弟姉妹なのです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。神様は私たちが礼拝できるよう、世界各地において神様のための教会を建てると言われました。御こころにかなう礼拝とは、分散の中にある結合をもたらすのです。
 
3.困窮した後の繁栄(6〜9節)
当時の人々が都へ上ることは命に関わること、破産に至る道であることです。彼らはエルサレムへ行くために財産を費やさなければなりませんでした。歩いて行く人もいれば、船に乗って行く人もいます。世界のあらゆる国からエルサレムに向かってきます。しかし、エルサレムを愛する人は必ず栄えると、聖書は教えています。これは真の祝福です。世の中の人は富めば富むほど平安がなくなりますが、主を信じる者は富んでいても平安があります。神様の内にあって、御こころにかなった礼拝によって得られる繁栄というのは、物質的な繁栄も霊的な繁栄ももたらされるのです。 
詩篇122編は、礼拝が喜びをもたらすこと、それは、苦難の後の喜びであることを教えてくださいます。礼拝は私たちを一つとし、それは分散した後の結合であることを教えてくださいます。礼拝は私たちに繁栄をもたらします。それは困窮した後の繁栄です。 
今日の私たちは神様の教会でのみ、真の礼拝を捧げることができます。しかも、主イエス・キリストによっていつでも神様の御座に来ることができるようになったのです。これは神様の愛と恵みです。数千年前に神様が各地に散りばめられたイスラエルの民を招いたのと同じように、神様は私たちを教会に招いておられます。私たちが神様の宮に行くことは喜びです。神様は私たちが帰って来るよう促し、また、遣わします。ですから、私たちは主の福音を携え、行って、主の宮を作ります。そうするとそこはエルサレムになるのです。