「バベル塔」鈴木啓明宣教師–2023.04.16


「バベル塔」
創世記11:1-9;鈴木啓明宣教師

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2021年5月2日に王鋭伝道師が今日と同じ聖書箇所を用いてこの箇所の理解がより深まるお話をされていますが、今日は同じ聖書箇所でも、教会の年間テーマである「愛し合い、主にある交わり」という視点から2点お話をします。
 
1.名前について
  何故天まで届く塔を建てることが裁きの対象になったのか、それは4節に書かれている目的を見るとわかります。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」目的は名をあげることです。ヘブライ語では名というのは私たちの名前以上の意味を持ちます。私たちの名前には自身の特徴は現われていませんが、ヘブライ語での名というのは、その人や物の特徴を現わすものなのです。先ほどの「名をあげる」の“あげる”はヘブライ語で“つくる”という意味です。つまり、彼らは高い塔を建てて自分たちの特徴を現す名前をつくりたかったのです。天にまで届く塔をつくることで、俺達にできないことは何もない、神のように偉大な者、神のような存在であることを示そうとしたのです。だから神様の裁きがあったのです。アダムとイブが罪を犯すのも神の様になるという誘惑でした。今回の彼らも同じ動機、誘惑なのです。これは神の権威に対するダイレクトな挑戦です。よって神様は素早く対応されました。言語を混乱させて彼らを散らし、民は人であって神ではない、神は神ではあり、それがどんな存在であるかをきっちりと証明されたのです。
 
  では、天まで届くような塔を建てたかった彼らの動機とは一体何でしょうか。4節の最後にこう記されています。「われわれが全地に散らされるといけないから」。高い塔を建てたかった本来の動機とは、散らされるかもしれないという不安で、その不安を解消するためでした。これは私たちも同様で、不安になると、お金を稼ぐ、ビジネスで成功する、もしくは教会で奉仕をすることによって不安を解消するかもしれません。では、私たちはどのように不安を解消するべきなのでしょうか。ルカの福音書10章20節で伝道旅行に行った弟子たちが、悪霊がイエス様の名によって従ったことを喜びながら戻って来た時、イエス様は弟子たちに「だがしかし悪霊どもが服従するからといって喜んではなりません。ただあなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました。クリスチャンでも、私たちに何ができるか以上にもっと重要な要素は、私たちの名前が天に記されているということです。それは私たちが神の子であり神に受け入れられているという私たちの立場を現すものです。私たちは今日の聖書箇所の人たちのように名があげられることではなく、名が記されていることを、ただ神から頂いた、神を天の父と呼べるこの立場を喜ぶことが重要だということです。神は王の王ですから、その子どもである私たちは王族のメンバーという立場になり、それは永遠に変わることはありません。
 
何故この様な立場になれたのか、それは初めに神様が私たちを選んでくださったからです。何か特別なわけでもない12弟子をイエス様が選んだように、全く特別ではない私たち一人一人もイエス様が選んでくださったのです。つまり教会では、神様に選ばれ名前が天に記された立場の兄弟姉妹を私たちは受け入れるということです。兄弟姉妹の行いによって受け入れる、受け入れないなどと判断するのではなく、受け入れること。それが兄弟姉妹を愛する一歩です。
 
2.建てることについて
  建てる、建築するということです。4節「さあ、町を建てよう、天に届く塔を建てよう」“建てる”が2回出てきます。では、私たちは「さあ」と言って何を建てるべきでしょうか。テサロニケ第一5章11節に、私たちが「さあ」と言って建てるべきものについて書かれています。「あなたがたは、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」。この「徳を高め合いなさい」という元々のギリシャ語は、建てる、建築するという単語です。つまり、「さあ、私たちはお互いを建てよう」ということです。お互いの建て方については教会の今年の年間テーマを通して毎週のように説明していると思いますが、ひとつ挙げると、この11節に書いてある「互いに励まし合い」です。その励まし方としては、兄弟姉妹に対して「ありがとうございます」と言葉で感謝を伝えること。これは非常に重要な励ましです。また、奉仕をする、助ける、プレゼントする、もてなすなど、行動で励ますこともできますが、更にひとつ強調したいのは、兄弟姉妹の存在そのものが励ましになるということです。同じ神を礼拝し同じ空間を共有する、奉仕しなくても、だまってそこに座っているだけで励ましになり建てられるのです。ですから可能な限り教会に来るということがとても重要なことなのです。
 
私たちが言うべきは「さあ、お互いを建てよう」です。私たちは名をあげる必要は一切ありません。私たちが喜ぶべきなのは天に名前が記されていることです。私たちの立場、それこそが私たちの喜びの根源なのです。