「ホサナ」林原億牧師–2023.04.02


「ホサナ」
マタイの福音書21:1-11;林原億牧師

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棕櫚の主日、民がホサナと叫んだ時、イエス様を王だと思ったでしょう。民はマカベア家が一時的にイスラエルを復興しイスラエルに入城した時、民が木の枝を敷きホサナと叫んだことを考えたでしょう。しかしイエス様は十字架刑に処せられます。民は豹変し十字架につけろと叫びます。私たちは神と利益の関係を持ちたいのでしょうか自分自身を捧げたいと思うのでしょうか。

 主は平和をもたらす王です。イエス様は王ですが私たちが想像する王とは違います。1節、二人の弟子がイエス様の言われたと通りロバを連れて来るために「主がご入り用なので」とロバの持ち主にいった時、彼は主の権威ある言葉に従いました。私たちの奉仕の態度はどうでしょうか。私たちを用いてくださろうとしている神に私たちは断るのでしょうか。奉仕は神の恵みです。私たちに選択肢はありません。神は御心のままに私たちを用いてくださいます。4節と5節にはイザヤ書とゼカリヤ書の背景があります。それは「主がロバの子に乗ってくる」という預言者を通して語られた言葉の成就です。また旧約聖書の「神は正しいお方」という認識です。神は正しい人を祝福し正しくない人を裁きます。マタイはイエス様が私たちの救い主だということを言っています。イエス様が乗られたのは若いロバであって荷物を背負ったことがありません。私たちもロバの子で、いつも背中に乗っている人を振り下ろそうとします。主はこのような私たちでも用いてくださいます。イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入ったとき、従わない者も従いました。ここには平和があります。主は平和をもたらす権威をもつ王です。私たちの人生を変え平和をもたらすことができるお方です。

 ホサナはダビデの子にある。2節、弟子たちはイエス様の言われた通りにロバとロバの子を連れてきました。服を脱いでロバにかけ、イエス様が乗られました。5節~8節、民がホサナと叫んだとき民はイエス様が自分の思いを満たしてくれる方と期待していました。信仰は自分の必要を満たすことではありません。必要なのは私たちが神に身をゆだねることです。民が木を切って道にしいてイエス様を迎えたのは救い主と真心から思ったのではありません。彼らは自分の政治的な地位が与えられるという期待があったのです。これがイエス様を十字架につけろと言った理由です。イエス様は救い主ではなく罪人となりました。私たちの仕える相手が人間であるならば、私たちも十字架につけろというでしょう。しかし私たちが仕えるお方が主であるならば、どんなに苦しみを受けてもすべては益となります。これが信仰です。本当の意味での奉仕です。私たちは主のために苦しみを受けることを考えなければなりません。まず主が私たちの為に苦しみを受けたからです。

 9節、ホサナは「救ってください」という元々の意味が「喜びの声」というふうに変わっていきました。イエス様は民が後に十字架につけろと叫ぶことがわかっていてもイエス様はエルサレムに入りました。民はホサナと叫んでいるが意味が分かりませんでした。しかし主がホサナの意味をよくわかっていました。イエス様が来られて私たち罪人を助けるためです。イエス様にとってホサナは「喜びの声」という意味で叫ばれたのではなく、「主よ救ってください」という意味です。

 10節、11節、民は力があって立派ななりをしている王様を期待しています。しかしイエス様は田舎の出身です。人々はあざけていました。もし導きがあれば私は田舎で牧会したいです。しかし私は主が行けといわれたところに行きます。これが奉仕なのです。私たちが選択するのではありません。私たちが主の前にひれ伏し、用いられたいと思うなら、それが本当のホサナです。いと高き方ホサナ。イエス様が王であることを喜びの声を持って叫ぶのです。イエス様を王と認めイエス様に従い用いられる教会になりますように。