「信仰:国と家の根」 林原億牧師–2023.02.05


「信仰:国と家の根」
サムエル記Ⅰ8:1-9;林原億牧師

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 今日は中国の元宵節にあたる。元宵節では、提灯を持ち歩く習慣があり、それは家の人数が増えて欲しい願いが込められている。つまり、中国人のお正月は家を中心としており、そのような家が集まり国をなしていた。また、イスラエル民族も元は家から始まり、12部族へと発展し、それが国を形成していた。国も家も、栄えるためには人々が団結し、協調する必要がある。それは信仰があってのみ可能となる。信仰こそ、国と家の根である。

 ①信仰こそ、国や家で衝突が起きた時の拠り所:イスラエルでは王を立てるべきか、賛成/反対両方の意見があった。このような衝突は今の世の中でも頻繁に起こる。最も大切なのは私たちがそれにどう応答しているかである。教会は変化に対し保守的であることが多く、「聖書的ではない」と声を上げるが、それのみでは社会との距離は開いていくばかりである。本来は教会こそ、正しい神学的な立場を有し、周りの地域に影響を及ぼす必要がある。教会も一つの家であり、神様によって遣わされた私たちが、地域にもたらした祝福の有無について考えなければいけない。

 イスラエル人が王を立てたい理由は二つあった(1-3節)。一つはサムエルが年老いたため、もう一つは彼の息子が正しい道を歩まなかったからである。しかし、前者について、サムエルはまだ活躍しており、言い掛かりに過ぎない。後者については、サムエル自身にも問題があったと言える(さばきつかさは神様がお選びになるべきだが、サムエルは自分の息子に世襲させた)。残念ながら、正義を守ることこそ、さばきつかさがやるべきことだが、息子たちは「さばきを曲げていた」とある。

 一方で、イスラエルの長老たちも神の道を歩まず、サムエルと論争に発展した(4-5節)。彼らは王を立てようとしたが、そもそも神様こそイスラエルの王である。つまり、長老の考えは、神様を退け、世の中の方法を用いて王を立てたいと思った。これは、私たちがどのような奉仕に携わっていても、御言葉に留まる必要がある、という警告を与えている。奉仕の中で最も難しいのは、長い間神様の言葉に留まりながら、情熱を持ち、忠実に奉仕することである。

 ②新しい考え方は真理にかなう必要がある:中近東では、どの民族も、常に王は神様である、という考えであった。そのため、「私たちをさばく王を与えてください」と長老が言ったとき、サムエルは非常に怒った。しかし、神様は長老たちの願いを聞き入れた(6-7節)。ここで分かるのは、お祈り通りになったからといって、それが神様の祝福とは限らないということ。お祈りの中で常に神様の御心を求める必要がある。

 ③思想は変化するのが常だが、国と家に対して、神様こそ唯一の道であることを教えなければいけない:最終的には、神様によって、イスラエルの王(サウル)が立てられることになった。その前に神様はサムエルに、イスラエル人に対し「きびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」と言われた。ここでの王様に関する記載は、申命記の17:18-20とは大きく異なる。「彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである」とある通り、王となる者は、常に主を畏れ、主のおきてを守らないといけない。

 信仰を国と家の根とすることは即ち、誠の神を礼拝すること、真理に忠実に従うこと、家族や人々を愛することである。これらを行うのであれば、国も家も神様によって祝福され、恵みにあずかることができる。