「一つとなる」林原億牧師–2023.02.19


「一つとなる」
エペソ人への手紙4:1-10;林原億牧師

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 パウロは1-3章で祈りについて語り、4-6章は勧めと励ましについて語っています。ギリシャ語では、「力強く勧める」という意味の言葉を使っています。励ますとは、近くでサポートするという意味です。主に身を委ねて献身するのです。すべての人が仕えることができるのではなく、重荷を持った人だけが仕えることができます。主のためなら死ねるという思いがあるから、教会に対して重荷を持つことができます。これが主とパウロの関係です。勧めることにも様々なレベルがあります。神様に対して献身しているからこそ、霊的なことを他人に勧めることができます。教会の中にも政治的なことがあります。グループを作って、自分の味方を作ろうとします。これが人の弱さです。パウロはそうではなく、主のために囚人になっても構わないと言いました。パウロは自分のために求めませんでした。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい(4:1)と言いました。召されて救われている私達の生活はそれにふさわしいものでなくてはなりません。

エペソ4:1-10には、教会の一致が必要だと記されています。主の囚人とは、主の内にいるという意味です。パウロは主に献身し、主のために何でもできました。私達も主の囚人であり、主の内にあります。私達がイエス様を信じたのは、自分の願いが叶えられるからでもなく、益があるためだからでもありません。主のために囚人にならなければ、パウロのように勧められません。主に献身していて、主に属しているから勧められるのです。召されたあなた方は、主との関係と霊的さがなければ地上で生きることはできません。信仰と生活は一致することが証しです。孔子の時代には六芸という教えがありました。六芸を活かし、家事や来客をもてなすことが六芸の学びよりも重要でした。有名なタイタニック号には、ジョン・ハーパー牧師や多くのクリスチャンが乗船していました。沈没していく船から海に落ちた牧師は、周りにいる人に救われているかどうかを確認しました。最後に若い人に自分の掴んでいた板を渡し、主を信じるよう勧めました。この若者は数少ない生存者の一人となり、本来はハーパー牧師の伝道集会のはずだった追悼集会で証しをしました。

一致したければ、2-3節にある徳を身につけるのです。当時のギリシャやローマではへりくだることは弱い人のすることだと考えられていました。自分の力を誇って協力者が居なくても大丈夫と思っていれば、それは謙遜ではなく、一致はありません。教会の働きは一人ではできません。相手のために自分の力を下げることは優しさです。忍耐と寛容を持って、相手の欠点や不公平さを我慢し、報復しないことも必要です。相手の長所を見るべきです。互いに寛容になることは、愛の具体的な表現です。愛をもって寛容になり、努力して一致を保ちます。相手を包み込めば、争いがなくなります。平和が大切です。グループに弱い人を受け入れ、人を繋げば、人と良い関係を結ぶことができます。伝導していけばそのグループは平和になり、一致できます。そして、教会も一つになれます。互いにあら捜しをして傷つけ合えば、そこには平和はありません。3節は7つの一つを使った信仰の現れです。教会は一つです。証のない教会は分裂していて、一致がありません。私達は同じ神様を崇めている信仰の一致があります。キリストだけが種であり、主権を握っておられます、教会の一致のために、福音を伝え、グループで弟子訓練をし、奉仕することを学びます。教育は一致のために重要なことです。一致がなければ主を礼拝することはできません。一致しない礼拝は主に受け入れられません。一致には祝福があります。宗教は善行だけではありません。この世は多様過ぎます。互いを尊重しなければ、平和はありません。私はある仏教徒に依頼され、その人のために祈っていました。5年後に祈りが聞かれたとき、私は少々驚きました。神様の恵みは人の理性を超えています。私達ひとりひとりに周りの人に仕えるために賜物が与えられています。私達が神様から与あずかった恵みによって周りを祝福することができます。8節は詩篇68篇の引用です。この箇所は、神様がレビ人をイスラエル人の中に送り込んだ、という解釈もあります。私達が神様に属するとき、恵みを与えられて、人々の中に遣わされるのです。教会は自分勝手に選択するのではなく、私達は神様から遣わされた教会で奉仕するべきです。神様に立ち返り、御心を実現するのです。神様に目を注ぎ、他人に目を注ぎ、一致する必要があるというのが、パウロの教えです。