「世界の基が据えられる前から」齋藤五十三牧師–2023.01.29


「世界の基が据えられる前から」
エペソ人への手紙1:3-6;齋藤五十三牧師

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エペソ人への手紙は1~2節は挨で3節からが本文の始まりですが、この始まり方、少し型破りです。何が型破りかといえば、パウロはいきなり賛美で始めているのです。しかも原文を見ると相当テンションが高い。例えば日曜日の朝、私が皆さんの顔を見るなりハレルヤコーラスを歌いかけていくような、そんな突き抜けた喜びのテンションです。パウロは感動しているのです。そして込み上げてくる感動を、切れ目のない賛美として一気に語り出すのです。
 
「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように」このパウロの感動はいったいどこから来るのでしょう。この手紙を書いた時、彼は牢獄に繋がれていた。不自由な牢獄で、どこからこの賛美が溢れてくるのか。それは驚くべき祝福のゆえでした。3節「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」 そう、この祝福がパウロの口を開いて賛美をうたわせていくのです。ここで言う霊的祝福は単にエペソ教会だけに注がれる祝福ではなく、私たち信仰者全てがその対象で、極めて具体的に、私たちが今日を生きるための勇気と励ましを貰えるような実際的な祝福です。しかし私たちの殆どがこれ程までの祝福に気づいていないと思うのです。
 
「天上のすべての霊的祝福」その内容を教えてくれるのが、続く4節、5節の御言葉です。ここに驚くべきことが記されています。私たち信仰者は神によって選ばれていたのだと。しかし私たちは自分が神の恵みで選ばれていたことに気づいていない。何故なら、私たちの生まれる遥か昔「世界の基が据えられる前から」神が私たちを選んでいてくださったからです。私たちは、自分で選んで決断し、イエス・キリストを信じたと思っていたかもしれない。しかしそうではない。神が私たちを選んでいたと御言葉は教えています。気づかないけれど選ばれている。知らなかったけれども、世界が造られる前から、神の愛が私たちを捉えていた。信仰の世界にはそうした驚くような祝福があるのです。

自分が「選ばれていた」と聞いてどう思われるでしょうか。おそらく普段から聖書を読んでいるなら、自分こそその選びに相応しいと胸を張れなくなると思います。ローマ3章でパウロは人間誰もが持っている罪深さを指摘しています。そしてこのエペソ人への手紙2章3節ではこうも言います。私たちは、かつては不従順の子らで、「生まれながら神のみ怒りを受けるべき子」であったと。聖書の人間観に照らすなら、私たちは選ばれるに相応しい人間ではなかった。それなのに神は一方的な恵みの選びで、私たちが生まれる遥か昔に、やがて生まれてくる日を楽しみに選んでくださったのです。

5節「神はみこころのよしとするところとに従って、私たちをイエス・キリストによって、ご自分の子にしようと、愛を持ってあらかじめ定めておられました」。神はまだ私たちの顔を見る前から「この子を迎えたい」と選んでくださった。これは宝くじに当たるような選びではなく、人格的、血の通った選び。その背後には愛が動機として働いているのです。
 
どうして私たちが神の子どもになれたのか。答えはひとつです。今日の聖書箇所には一人のお方のことが4回にわたり繰り返されています。3節「神はキリストにあって」、4節「この方によって私たちを選び」、5節「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」、6節「神がその愛する方にあって」。聖書は、選びはキリストにあるものだと繰り返します。イエス・キリストは、私たちを神の子どもとするためにこの世に来てくださった。ヨハネ福音書1章12節「その名を信じた人々には神の子となる特権をお与えになった」。とあります。キリストのおかげで準備万端整っている。あとは、私たちがキリストを信じること。キリストを信じるときに、私たちは神の子どもとして迎えられていくのです。
 
神様が私たちを子どもとして選んだのは、私たちを「御前に聖なる、傷のない者」にするためだったと、4節は記しています。もとは罪ゆえに清さからはほど遠く、むしろ傷だらけだった私たち。そんな私たちを、神はキリストにあって子どもとしてくださった。この愛に応えるために、聖なる者、傷のない者を目指して、いよいよキリストに深く結ばれていきたい、聖霊の恵みを求めていきたい、そのように願わされたこの朝のひとときでした。