「一人が救われると、全家が恵をいただく」 上辻洋平牧師–2023.01.22


「一人が救われると、全家が恵をいただく」
出エジプト記12:1-11;上辻洋平牧師

錄音

錄影


過越は、主イエス・キリストが十字架上で流された血潮による救いを表しています。御言葉によると、過越は各々の家族・(父祖の)家ごとに守るものとされ、イスラエル人がエジプトを出たときから、この考えが伝承されてきました。では私達の信仰の伝承は、家ごとに行われているでしょうか。救いの主権は神様にありますが、私達にも責任があります。福音伝道の責任を担うことで、私達は初めて「家族を救ってください」と祈ることができるのです。
 
 1.家族ごとに守る過越しの祭り
 神は恵みに満ちたお方です。一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改め、救いの道に進むことを望んでいます。過越には「救いが次の世代へ伝承される」という考え方がありますが、「家族のうち一人が救われれば、その他の人が無条件に救われる」という意味ではありません。神がかつて羊の血を門柱に塗った家を過ぎこしていった際、家族がどのような信仰を持っていても関係ありませんでした。これは今日私達がいうところの一般恩恵です。神様は主を信じている・いないに関わらず、私達が生きるのに必要なものを与えてくださいます。

 一人が救われれば家族全員が救われるのではないか、という人がいます。確かにそのような御言葉はありますが、歴史背景とともに意味を考えなければなりません。(使徒の働き16:30-34)当時、一家の主の権力は高く、宗教を変えると家族はそれに従わなければなりませんでした。しかし看守はそのような権力があったにも関わらず、家族を神の前に連れて行きました。家族が揃って救いに与ったのは、一人がこうして積極的に家族を神の前に導いたからではないでしょうか。(ローマ10:17)にも「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての御言葉による」とあります。新年を迎えるにあたってぜひ志を立て、家族にも福音を聞かせてあげてください。また私達が主の教えを行い、家族に伝えていくことで、神の恵みが家族に臨まれるようになります。
 
 2.子羊が命を捨てて血を流された恵み
 現代社会には色々な情報が蔓延っていて、キリスト者である私達でさえも環境によって十字架の恵み・尊さを忘れてしまうことがあります。私達がキリストを十字架にかけた張本人であるにもかかわらず、神様がその私達を救ってくれたということは、どれだけ大きな恵み・愛なのか考えてみてください。これが過越の祭りが設けられた意味でもあります。過ぎ越しの生贄がいなければ、誰一人として裁きから逃れることはできません。このことからイエスの血潮がどれだけ尊いものか分かるはずです。

 ですから私達は、ユダヤ人たちが毎年過ぎ越しの祭りを守っているように、キリストがなぜ私達のために命を捨てられたのか常に考え、救いの恵みを心に刻まなければならないのです。もちろん聖書は「私達を通して、家族が恵みに与る」と教えています。しかし誰一人として神様の恵みを追い求めなければ、それもまた限りがあるのではないでしょうか。イスラエル人が今もなおそうしているように、私達は積極的に自分の信仰を次の世代に伝承していかなければなりません。難しいことですが、不可能なことではありません。御言葉にあるように、私達が「入っていくときも祝福され、出ていくときも祝福される」姿になりますように。