「みな一つとなる」 王鋭伝道師–2023.01.15


「みな一つとなる」
ヨハネの福音書17:20-26;王鋭伝道師

錄音

錄影


 ヨハネ17章はイエス様が弟子たちのために祈った祈りです。イエス様は弟子たちが将来極めて大きな危機に直面することをご存知でした。どんな大きな組織も中心人物がいなくなれば、簡単に解散してしまうことがあります。人は本質的に自分の都合ばかり考えて、バラバラでいることを好みます。それは教会でも同じことです。

 ヨハネ17章では、一つとなるという言葉が繰り返されています。なぜなら人は一つになっていなかったからです。イエス様が地上にいる間も、弟子たちの間でも一致がありませんでした。弟子の裏切りもありました。イエス様は一致することを祈っていました。イエス様の肉体が私達から離れていても、御霊がとどまっているので、御父と御子が一つであるように、私達もイエス様と一つになることができます。それが主の働き、恵み、力です。バラバラでいるのを好む人も、イエス様によって一つになれます。イエス様は私達が一つになるために祈っていました。世代を超えて一つになり、へりくだって愛の中にあって一つになるのです。

 17:21-22で、イエス様は弟子たちのために祈りました。弟子たちはイエス様がいるときも一致しておらず、その後も一つになれない誘惑がありました。私達はイエス様に会ってはいなくても、イエス様を信じているのは、使徒たちが伝えた御言葉の故にです。イエス様と一緒に居た弟子たちだけではなく、同時代、新時代、新旧の時代も一つになっていません。パウロと使徒たちも神学的に一致していていなかったのです。教会の歴史の中でも同じような不一致がありました。

 主は栄光をお与えになりました。私達は、イエス様の力やいやし、栄光は大好きです。栄光は原文ではキラキラしたものという言葉ですが、私達はダイヤモンドのようにキラキラした人の注目を集めるものが大好きで、栄光とはキラキラしたものだと思っています。しかし、主が与えられる栄光は、私達の予想とは異なっているかもしれません。御父が御子に与えた栄光は、もともと持っていたものではなく、イエス様が勝ち取ったものです。御父が御子に与えた栄光は、自分を無にして仕えるものの姿になることでした(ピリピ2:6-9)。イエス様は奴隷のようにこの世に生まれました。当時の奴隷は全く自由のない、主人の財産の一部とみなされていました。イエス様は私達のために奴隷となり、最も屈辱的な死に方をしました。これがキリストが与えようとしている栄光です。

 教会で不一致がおこるのは、なぜでしょうか。人はみなリーダーになりたがり、そのためには大きな代価を支払います。教会の歴史は人の栄光です。御父が与えてくださった栄光は、へりくだって得たものです。しもべとなって得た栄光なのです。

 教会の執事は、教会のしもべでもあります。昔は教会の同労者のことを執事と呼んでいました。神様がともに働いてくださり、しもべとならせてくださるのは恵みです。奉仕すればするほどしもべらしくなくなってはいないでしょうか。主に似たものになっていなくはないでしょうか。そこには大きな誘惑があります。人の栄光を求めるから、不一致になります。神様から勝ち取った栄光を、イエス様が与えようとしています。私が求めているのはキラキラした栄光ではないでしょうか。イエス様に自分のことを知ることができるよう、一致することができるように求めましょう。自分は奴隷の姿か、もしくは傲慢になっていないか?

 愛がなければ一致はありません。神様は先に私達を愛してくださり、互いに愛し合えるように助けて下さいました。人の目から見ると、家族の中でも平等ではありませんが、一致があるのは愛があるからです。私達のうちにいるイエス様が使徒に御言葉を教えたように、私達にも今なお教えてくださいます。私達は、御霊によって私達のうちにいるイエス様とは切り離せない関係にあります。

 一(いち)とは尊い言葉で、神のみが一であり、本来私達はその他大勢でしかありません。しかし、御父と御子が一つのように私達もキリストと一つになることで、神様と一つになれます。神様と私達は、このように親しい関係です。主の栄光は私達の栄光です。神様がひとりごに代価を支払わせ、与えてくださった栄光です。私達の肉の欲望を十字架につけ、主と一つになりましょう。