「給5千人吃飽」鈴木啓明宣教士–2022.11.20


「5千人の給食」
ヨハネの福音書6:1-14;鈴木啓明宣教師

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 今日の聖書箇所は、イエス様に従っていくとどんなことが待っているかを教えてくれます。

 1. イエス様に従っていくとイエス様は何をしてくださるか
 群衆は食べ物が欲しくてイエス様に従ってきたのではありません。彼らはイエス様が病人を癒やしたことを見ていました。イエス様の教えを聞くために集まっていました。しかし、イエス様は群衆に食べ物が必要なことを知っていました(5節)。私達が必要なものはイエス様が考えてくださいます。生活費、子供の学費、円安や戦争の影響による物価高で私達はお金が必要です。私達は、時間も必要です。相談できる友や仲間、正しい決断をするための知恵が必要です。イエス様は私達が自分自身で気付いていない必要なものもご存知です。また、それをどう備えるかも知っています(6節後半)。創世記2:18には似たような話が書かれています。イエス様は私達がイエス様に従うときに必要なもの、それをどう満たすかもご存知で、備えてくださっています。
 イエス様はときに従う者を試すことがあります(6節前半)。私達も信仰を試されるときがあります。この世に違う神様は存在しません。神様から離れて教会から離れるならば、天の家に帰ることができなくなります。

 2. 従う人は何をすればよいのか
 少年は、自分の持っているものをささげました。自分のお弁当をささげる必要はありませんでした。しかし、それをささげたことにより、五千人が満たされました。自分にとって大切なものをささげることが、マルコ12:14以降にも記されています。イエス様はさいせん箱に群衆がお金を投げ入れるのを観察していました。貧しいやもめが入れたレプタは、当時の一番小さい単位のコインです。イエス様が見ていたのは、いくら投げ入れたかだけではありません。いくら投げ入れていないかを見ています。やもめは貧しい中から誰よりも多くささげました。ささげものを最終的に受け取るのは神様です。神様にとって、やもめは多くをささげた人です。しかし、この世はいくらささげたかが重要と考えます。
 少年がささげた五つのパンと二ひきの魚は、価値がないと思われました(9節後半)。しかし、神様はそれを用いて五千人を満たされました。自分の持つものの価値を自分で決めてはいけません。もしこれがあったなら奉仕したのに、などと思ってはいけません。今持っているものをささげるのが、イエス様に従う者のすることです。どこかの新興宗教のように、献金を強制しているのではありません。イエス様は、やもめのようになれとも言っていないし、金持ちが悪いとも言っていません。神様はやもめから多くを受け取りました。お金があるのならば、感謝するのです。礼拝のあとにショッピングに行っても構いません。神様の国は、どれだけ与えるかが重要なのです。これがイエス様に従う者の投資です。この世はどれだけ手に入れられるかにこだわりますが、神様の国はどれだけささげるかが重要です。お金に詳しい人は、株や不動産に投資をしてこの世で生きている間に報酬を得るでしょう。神様の子供の報酬は家に帰った時に与えられます。この世の投資はある程度のお金がないとできませんが、神様の国の投資は違います。持っている物をどれだけ差し出すかで決まります。誰でも投資ができます。やもめは最高の投資をしました。少年も良い投資をしました。イエス様に従う者全てができる投資は、時間をささげることです。忙しい中から大切な時間を神様にささげることは、やもめが持っている全てをささげたことと同じです。ささげる場所は教会に限りません。家庭内でもささげることができます。福音を伝えようとしても、相手から愛されていると感じないと、伝えられた人に福音が伝わりません。親子の場合も子供が親を尊敬できないと、親から子供に福音が伝わりません。

 やもめと少年に共通しているのは、多くの人にとって全く価値のないものをささげたところです。しかし、彼らは最高の投資をしました。神様の国では誰でも投資ができます。将来私達が家に帰るとき、神様から報酬を得ます。いただく報酬はそれぞれ異なります。それは、この世でどれくらいささげたかが大きな要素になります。私達がささげるものは、今持っているものです。