「イサクと笑い」王鋭伝道師–2022.11.13


「イサクと笑い」
創世記21:1-13;王鋭伝道師

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「笑う」という言葉は必ずしも「喜び」を表す言葉とは限りません。今日の聖書箇所における「笑う」という言葉には「からかう」という意味も含まれています。イサクという名前はヘブル語で「笑う」という意味であります。3節には、アブラハムがイサクと名付けたとありますが、イサクという名前は神様によって与えられたものです。私たちの生活の中でも笑う場面はよくありますが、多くの場合、良い意味の笑いではなく、自分の愚かな状況に苦笑したり、嘲笑されたりするものではないでしょうか。イサクという名前もこのような笑いの意味であります。しかし、神様を信じ、神様により頼む人は、最終的には喜びの笑いが与えられます。
 
アブラハムは神様によって与えられた約束を聞き、ひれ伏し、笑いました。100歳のアブラハムと90歳のサラに男の子が与えられるという神様のことばを信じられずに笑ったのです。サラもこの約束を聞いて同じように笑いました。ですから、イサクという名前はこの信じない笑いによるのです。私たちが福音を伝えるときも同じです。聞いた人は信じないだけではなく、福音の内容を聞いて冗談だと思い、笑うのです。しかし、福音を伝えることを諦めてはなりません。福音が本当の真理であることは、御霊の導きによって明らかにされます。不可能だと思われたことが成就されたとき、信じない笑いは喜びの笑いに変わります。
 
9節には、イサクが、ハガルがアブラハムに産んだ子によってからかわれたとありますが、この箇所での「からかう」とは、先ほど出てきた「笑う」と同じ単語になります。しかし、サラが神様の約束を聞いて笑ったときの意味とは違い、侮辱や迫害といった意味になります。パウロは使徒となったあとの人生について、様々な迫害に遭い、この世の見せ物となったと語っています。それでも、私たちはイエス・キリストのために証しをしなければなりません。

日本の社会においては直接的な迫害を受けることはないかもしれませんが、伝道者という身分で生活することが容易ではないことは痛感させられています。私たちは世の中に歓迎されません。イサクがイシュマエルにからかわれたように、私たちは世の中によってからかわれるのです。”しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。”(ガラテヤ4:29)
 
イエス・キリストの生涯は迫害に満ちたものでした。からかわれ、辱められ、最終的には十字架につけられました。福音とは何でしょう。それは、イエス・キリストが3日目に蘇られたことです。6節にある「笑う」とは、今日の聖書箇所で唯一「喜び」を意味するものです。アブラハムとサラは多くの人に笑われ、イサクはからかわれました。私たちはこの世の中で笑われたり、からかわれたりします。しかし、最後に喜びの笑いが与えられるのは、神様を信じてより頼む人です。私たちに対する神様の約束と祝福は、やがて再臨されるイエス・キリストとともに私たちに臨まれるからです。