「回家」林原億牧師–2022.11.06


「家に帰ろう」
創世記22:1-14;林原億牧師

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「家」という漢字は二つの部分から成り立っている。上部は屋根を表し、下部は豚を表す。これは、家が人の必要を満たすことを表す。現代社会では、所謂「大家族」は少ないが、昔は家長が百人にも及ぶ家族の必要を満たす責任を負っていた。例えば、嫁は家で大人数の食事を作る必要があり、夫は大人数を養う経済力を持つ必要があった。現代社会では、家庭観念が崩壊した結果、性格が合わなければ離婚するなどの事象が増えてしまったが、昔は家を離れて生き残ることは非常に困難であった。

聖書では「家に帰ろう」について多く語られているが、それは天国の家に帰ろうという意味である。生涯を終えた人間は、神様の前で「清算」、即ち何をしたかを報告しなければならない。その時、イエス様を信じているなら、イエス様の血潮が私たちの罪を覆いかぶさってくださり、天の家に帰ることができる。

家は信仰を受け継ぐ場である。神様が「アブラハムよ」と呼びかけると、彼は、「はい。ここにおります」と応答した。これはアブラハムと神様が良い関係にあることを表す。私たちも、罪から離れ、神様の命令に喜んで聞き従う準備ができていれば、神様が呼びかける時、同じように「ここにおります」と応答できる。そのようなアブラハムに対し、神様は「イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」と言われた。この命令を下すにあたり、原語では「どうぞ」という言葉が使われている。これは、「難しい任務だが、どうぞ、私を信じてください」という意味合いがある。これは、今日の私たちに対するチャレンジでもある。モリヤの地は後の聖殿が立てられた場所であり、即ち神様を礼拝する場所である。つまり、私たちは神様を礼拝する時、他に神様よりも愛する者がないかを問われている。「私は純粋に神様を礼拝したい」思いがある時、私たちの子供も初めてその信仰に倣う者となる。

家は信仰を実践する場である。聖書ではアブラハムは「全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った」とある。ユダヤ人は毎年3回聖殿へと集まる。聖殿へと向かう道のりで山を登る。そして、登る過程は神様へと心を向ける象徴である。アブラハムとイサクはモリヤの山を「いっしょに進んで行った」とあるが、この父と子が心を合わせて神様に心を向けることこそ、現代社会で最も欠けているものである。やがてイサクは「いけにえのための羊」がないことに気づくが、アブラハムが「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」と言うと、彼はそれを信じ、「いっしょに歩き続けた」。アブラハムの最大の特徴が信じることであれば、イサクの最大の特徴は静けさにある。これはイエス様の性質に似ている。イザヤ書53:7には「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」とある。苦しくないから黙っていたのではない。イエス様は私たちが天の家に帰れるために、ご自身を捧げられた。

家は祝福を受ける場である。アブラハムがイサクをほふろうとしたとき、御使いが彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。そしてアブラハムは「はい。ここにおります」と応答した。聖書で人の名前が2回連続で繰り返される時、それは緊急事態である。そして御使いは「その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」と語られた。神様はアブラハムがご自身を恐れるかどうかを知らなかったのではない。この箇所は今日の我々に見せるためにある。この箇所は「アブラハムが、どれほど神様を愛しているか、御覧なさい」という呼びかけである。今日、神様も私たちに「あなたが最も愛するものを連れてきなさい」と呼びかけている。また、最後に「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた」とある。アドナイ・イルエとは、正確には「神様が主を恐れる全ての人を顧みてくださる」という意味である。

神様は私たちに、イエス・キリストを通して帰ろうと呼び掛けている。その呼びかけに応答するのであれば、私たちは神様を知り、神様を恐れ、神様のみに栄光を帰すことができる。そうすれば、「アドナイ・イルエ」という言葉の意味通り、必ず神様も私たちが家に帰るまで、私たちを顧みてくださる。