「主を認め、愛し、受け入れる」上辻洋平牧師–2022.10.09


「主を認め、愛し、受け入れる」
マタイの福音書10:32-42;上辻洋平牧師

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イエス様ははじめに弟子たちに「宣教の道には様々な困難がある」ということを伝えました。クリスチャンが宣教をする時には人々に排斥されたり拒まれたりします。ですから、完全に神様の導きに従い、ふさわしい家に平安を持って行くよう伝えました。特に「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」とは、私たちがどのようにしてこの世の人々と関わるべきかを教えています。イエス様は、私たちが福音伝道を通して得た教訓や挫折からさまざまなことを学んでほしいと、前もって宣教の厳しさを伝えました。私たちが恐れるべきお方は神様だけであって、人を恐れるべきではありません。今日の聖書箇所にあるイエス様の教えにはどのような意味が含まれているのでしょうか。
 
1.主を自分の主として認める
  人が自分との関係を認めるということは、最も基本的な繋がりです。ですから、繋がりを認めないということは、その人との関係を断つということになります。イエス様はいつでも私たちとともにおられます。私たちがイエス・キリストを自分の救い主と信じたにもかかわらず、イエス様を認めないのであれば、ペテロが3回イエス様を否定したことと変わりありません。迫害があった時代においては、イエス・キリストを主として認めるということは殉教に値することでもあり、非常に重い意味がありました。多くの人は圧力に耐えられずイエス・キリストを否定したのですが、後悔して再びイエス・キリストの信仰に立ち返る人もいました。ですから、イエス様が私たちを受け入れてくださることは恵みであり、否定した過去に対しては屈辱でもあるのです。しかし、ある人は自分の利益のためにイエス・キリストを認め、またある人は、恥ずかしさから人前でクリスチャンという身分を明かさない、そのような人たちは、主の御名をけなしているのと同じです。私たちは主を自分の主人、救い主、神様として見るべきなのです。
 
2.迫害は私たちに疎遠をもたらす
  イエス様を主として認めることで、まだ主を信じていない家族や友人、周りの人たちとの価値観の違いによって隔たりが生じ、深刻な問題に発展することもあります。主を信じたあとは、たとえ自分に利益があることであっても、良くないことをするべきではありません。サタンがコントロールしているこの世においては、神の子どもたちと世の子どもたちは敵対する関係になります。価値観の違いによる衝突が起きたり、或いは、クリスチャンが世の中に流されて、神様に喜ばれない行いをしてしまう恐れもあります。ですから、力を尽くして福音伝道をしなければなりません。イエス様を自分の主として認めないのであれば、自分が大切にしているものを神よりも高い地位におくことになるのです。私たちが自分のいのちを下ろし、イエス様と生死をともにしようとするのであれば、イエス様が与えようとしておられる新しいいのちを得ることができます。
 
3.受け入れることと受け入れられることの意味
  受け入れるということは、人に対する愛の心の表れです。主を信じる者の心には御霊が住まわれています。ですから、主のうちにある兄弟姉妹を受け入れることは主を受け入れることです。目的を持って人を受け入れるのではなく、主を受け入れるようにその人を歓迎し、認めることです。一方、受け入れられる側に立った時、それが当たり前だと思ってはなりません。良くもてなされたら、それだけ謙らなければなりません。なぜならば、私たちは振る舞いによって神の子どもであることを見せなければならないからです。互いに認め合い、歓迎し合い、受け入れ合わなければなりません。
 
クリスチャンは人前であってもなくてもイエス・キリストを主と認め、主を愛しなさいと聖書は教えています。主のうちにあって忠実に、自分の十字架を背負って主について行き、心から人を受け入れるのであれば、主の祝福に与ります。それによって、私たちの霊的いのちも多くの実を結び、御名を崇めることができます。