「さあ、天を見上げなさい」山口陽一牧師–2022.09.11


「さあ、天を見上げなさい」
創世記15:1-21、ヤコブの手紙2:23

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  創世記14章にはアブラハムの生涯における劇的な勝利、大成功の経験が記されています。しかしどんなに成功を収めても、アブラハムの心の奥に深い恐れや憂いがありました。15章にはそんなアブラハムの姿が描かれています。アブラハムは神様から「あなたの子孫にこの地を与える」と約束されていたにもかかわらず、子が生まれない、跡取りがいないことに悩み、神の約束は本当なのか?神は私を顧み祝福し、愛してくださっているのだろうか?と恐れていたのです。
 
(1節~6節)「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい」1節で主はアブラムの恐れに答えを下さいました。それに対しアブラムは「あなたが子孫を下さらないから、私の家の僕が跡取りになるでしょう」と思いの丈をぶつけます。しかし主は「あなた自身から生まれる者が後を継がねばならない」と言われます。ここでアブラムは自分の心の内を率直に神様に話しています。この様に神様と対話ができたアブラハムの生涯は私達の信仰生活の原型です。そして主は彼を外に連れ出し『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫はこのようになる』と言われたのです。すでにアブラムは80歳を過ぎ、サライも70歳を過ぎており、子を授かれる歳ではありません。しかしアブラムはこの主の約束を信じたのです『それで、それが、彼の義と認められた』これは大変重要なことで、新約聖書はこの箇所を大事なところで引用し強調しています。(ローマ4:3、ガラテヤ3:6、ヤコブ2:23)
 
その中でもヤコブ2:23の「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(ここまではローマ、ガラテヤと同じ)この信仰義認の教えの上に「という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれた」というもう一つの視点で語られている点に注目したいと思います。アブラハムは神の約束を信じ、それが実現していく過程で様々な出来事を通して神の友として成長しました。神と恐れながらも同時に、友と呼ばれる人生を歩んだのです。アブラハムが主を信じ義と認められた様に、私達もまた、イエス様を信じ義と認められ、神の友として歩む祝福を、約束されているのです。
 
(7節~11節)神がアブラハムと結ぶ契約について見てみましょう。9.10節は古代オリエントの契約の儀式で、二つに引き裂かれた動物の間を契約を結ぶ者同士が通るという儀式。もし契約を破れば、この生贄のように引き裂かれてもよいことを意味する命懸けの契約です。11節は生贄の血の臭いを嗅ぎつけて猛禽が集まってくる恐ろしい場面です。
 
(12節〜16節)1日中動物を切り裂き猛禽を追い払い続けたアブラムは疲労困憊で深い眠りに落ち、その中で暗闇の恐怖、神の臨在の恐ろしさを経験します。神の臨在とは恐るべきことで、罪に汚れた人間が、きよい神の前に平安をもって出られるのはイエス・キリストによってのみ。イエス様がいなければ罪人が神の前に出ることは本当に恐ろしいことだと忘れてはなりません。そして神様は、イサクが生まれ、その子孫がエジプトに下り奴隷となって400年、そこから帰ってくるという壮大な将来のことをここで啓示されています。
 
(17節〜21節)通常契約の儀式では、切り裂かれた物の間をその当人同士が通ります。しかしこの契約では、生贄の間を通ったのは神を象徴する「煙りの立つかまどと、燃えているたいまつ」だけです。通常契約とは、お互いが約束を守ることで実現するものなので、この契約は神様ご自身の真実によって成し遂げられました。旧約の長い歴史を見ると、人間は幾度も神の約束を破り神に背き、憐みを受けているのになお、愚かにも罪を犯し続けます。しかし神様はご自身が結んだこの契約に忠実であり、この契約のずっと先に、最終的にイエス・キリストの十字架の救いを与えてくださいます。神様の約束は、この後ダビデ、ソロモンと時代を追って実現して行きますが、イエス様の十字架によって世界中の人が神の恵みにあずかる日が来る。ここに約束の成就があるのです。『さあ、天を見上げなさい』神様は今日も語っておられます。天を見上げ、神様の約束を信じ、神様の友として歩んで参りましょう。