「天の父の御こころ」林原億牧師–2022.08.07


「天の父の御こころ」
ルカの福音書15:11-32;林原億牧師

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  まずは14章について触れたい。イエス様は14章で、二つ大切なポイントについて語っている。
a) 26節「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」。この箇所を見ると信仰と家庭が相反するもののように見える。しかし、この教えはユダヤ教にも存在し、当時の人は特に問題を感じなかった。イエス様がここで強調しているのは、クリスチャンであれば、聖書の価値観を受け入れ、自分のためにではなく、神様のために奉仕・生活をしなければならないことである。
b) 34節「味気を失った塩」。当時、人々は岩塩を生活に用いていた。岩塩に塩気がなくなればただの岩である。私たちも、生活の中心に主がいないのであれば、塩気を失った岩のようになってしまい、神様に用いられることができない。

 これらを理解した上で15章を読みたい。残念ながら、人間は神様に喜ばれる生活を送れておらず、聖書で描写されている信仰を活かせてもいない。けれども、主は私たちを愛してくださっており、私たちを連れ戻したいと願っている。今日は放蕩息子の話から3つ分かち合いたい。

1) 私たちが天の父の心を傷つけようとも、父は私たちを愛してくださる。まずは12節で、弟が「おとうさん。私に財産の分け前を下さい」と言った。旧約聖書では、父が亡くなった後の財産の分け方について記載がある一方、父が生きている間に財産を分けても良いとは書いていない。即ち、弟は社会的に許されないことをしたと言える。その後、弟は「何もかもまとめて」とある。これは弟が全ての財産を売り払ったことを意味する(ユダヤ人の律法では、このような財産の取り扱い方を禁じているのにも関わらず)。その後、弟は「遠い国に旅立った」とあるが、これは弟が父の家族の一員ではなくなったことを意味する。彼の結末は「放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」とある。「放蕩」は救いの反対語として用いられており、即ち弟は神様から離れ、望みを失った人となったことが分かる。そんな弟に対しても、父は彼を愛し、彼の帰りを待ち望んでいた。

2) 天の父の心は、私たちが悔い改め、立ち返り、家に帰ることである。やがて弟の生活は「豚の食べるいなご豆で腹を満たす」まで落ちぶれた。しかし、そこで弟はやっと主に立ち返った。彼は自分で状況を打開する希望が全くないことに気づいた時に、「我に返った」のである。そして弟は「あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」と父に言おうと思った。確かに、私たちも神様の恵みを祈る資格すらない。なぜなら、恵みは祈ったから与えられるのではなく、神様が自らお与えになるものである。祈ったから救われたのではなく、神様が自ら救ってくださったことに感謝したい。やがて、弟が「まだ家までは遠かったのに」、父は彼を見つけだしたとある。これこそ、神様の愛である。遠く離れてしまった私たちのところに、言葉が肉となり、イエス様が自ら探しに来てくださった。父は「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と言った。これは、家族ではなくなった弟が、再度家族になった、という意味である。

3) 天の父の心は、家の外にいる息子が帰ってきて、家の中にいる息子が父のその心を理解することである。家の中にいた兄が「弟さんがお帰りになった」と聞いた時、彼は「おこって、家にはいろうともしなかった」とある。宣教学では、宣教とは3つのタイプに分かれるとある。即ち、①異なる場所で、異なる文化の人、②同じ場所で、異なる文化の人、③同じ場所で、同じ文化の人の3つである。実は最も難しいのが③である。教会が良い例である。生涯教会に通い続けても、一度たりとも外にいる兄弟の帰りを望んだことがない人は多い。帰って来た弟を見て、兄は父に対し、「あなたの息子」と訴えており、弟を家族として見ていないことが分かる。一方でそんな兄に対し、父は「おまえの弟」とあるように、兄が弟を家族として受け入れることを勧めている。

どうか私たちも天の父の心を理解し、神様が愛する人々の帰りを待ち望み、帰って来た人々を歓迎できるよう、お祈りしよう。