「みことば:家宝なり」林原億牧師–2022.07.03


「みことば:家宝なり」
ルツ記1:1-18;林原億牧師

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 1.神の言葉は絶望の家に希望をもたらしました。1~2節、ベツレヘムは食料の蔵という意味です。そこで飢饉が起こりました。これは神の働きです。すべては神が与えてくださるものです。私たちが神のみ言葉に従わない時、神の豊かさが私たちから離れてしまいます。

 エリメレクという名前の意味は「我が神が王」です。エリメレクはエルサレムで飢饉があり生きていけないので家族を連れてモアブの地に移りました。私たちも問題に直面しその場所で生きていけないと判断したとき場所を移します。しかし私たちが問題に直面してまずしなければいけないことは自分の判断ではなく神の御心を求めることです。私たちが神の導きに従ったなら神の御心を見出すことができます。

 3~5節、モアブの地でナオミは夫と二人の息子を亡くします。絶望です。私たちの人生でも絶望に直面することがあります。神はクリスチャンが絶望の時でも神を仰ぎ頼ることを望んでおられます。神は私たちに人間を頼ってほしくないのです。ナオミは夫と息子に先立たれてすべてのことが不可能になりました。しかしルツを通してダビデが与えられます。イエスキリストもこの家系の上でお生まれになります。最も困難な時に神がすべてにおいて可能なのです。

 2.神のみ言葉が人々を危機から回復するきっかけを与えてくださいます。ナオミはモアブの地で10年間生贄を捧げていない人生を送っていました。6節、しかしナオミは信仰を失っていませんでした。彼女がエルサレムに帰ろうと思ったのは主がご自分の民を顧みてくださったことを聞いたからです。彼女はモアブに住んでいましたが心はベツレヘムを思い描いていたのです。

 「顧みて」という言葉には良い意味と悪い意味があります。良い意味は、ベツレヘムの必要とその場所にいる神に忠実な人たちを神は顧みてくださる。悪い意味は、神は私たちの罪を追跡してくる。神は、飢饉の中でも神に忠実な者をみて顧み行動に移してくださったのです。私たちは、神の祝福を自分の置かれている環境によって判断します。しかし神は私たちが忠実であるかどうかを見ています。

 3.神の御言葉を信じることによって全家族が祝福されます。11節、自分の兄弟が死んだ時、その未亡人に子孫がいな場合、残された兄弟が死んだ兄弟の妻を娶らなければなりません(申命記25章)。ナオミは10年間ベツレヘムを離れていましたが神に忠実な人であり神の言葉を覚えていました。しかし彼女は子供を産みたくても産めません。13節、二人の嫁はモアブ人ですからベツレヘムに一緒に帰ったらとしても生きることができません。ですからナオミは彼女たちを実家に帰そうとしました。ナオミは彼女たちを祝福し神のみ手に委ねました。

 しかしルツはナオミについて行きます。16節、「あなたの住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」ルツがナオミに従い彼女の弟子になり神の道を歩む決心をしたということです。ナオミは平凡でしたが神の言葉と御心は必ず成就すると信じたのです。それがルツに感動を与えたのです。私たちが家庭で神のみ言葉を教えるならば、子供に自分の神のみ言葉に対する態度を見せ子供が弟子になるように導くなら、一家で神の道に進むことができます。神が私たちと私たちの子孫を祝福してくださいます。