「父なる神の顧み」上辻洋平牧師–2022.05.08


「父なる神の顧み」
マタイの福音書10:26-31;上辻洋平牧師

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クリスチャンを迫害する人の多くは「人を愛せよ、神を愛せよ」という道理を受け入れられません。しかし、神様を受け入れない人がクリスチャンを迫害するとは限りません。聖書が教えている行動規範とは、世の中でいう善良で誠実な人のことと同じです。それは、神様がご自身の形をとって人を造られたので、人の心には誠実で善良な性質が備わっているからです。迫害する人の大多数は心に邪悪で傲慢な思いがありますが、聖書はそのような人を恐れる必要はないと語っています。
 
1.私たちは誰を恐れるべきか
 
私たちは死、貧しさ、迫害、これら恐れる必要のないものに対して恐れを抱きます。しかし、人は誰でも死の束縛から逃れられず、お金を稼ぐ為には時間を費やし、迫害する者もやがて神様の正しい裁きを受けます。このように、からだを殺してもたましいを殺せない人たちを恐れる必要はないと、神様は仰っています。悔い改めない人はからだもたましいもやがてゲヘナで滅ぼされます。しかし、神様は恵みと憐れみと慈愛に満ちた神様です。誰一人滅ぼされることを望んではいません。
 
イエス様は私たちの身代わりとなって、私たちが受けるべきさばきを受けられました。ですから、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるのであれば、滅びに対して恐れることはないのです。恐れる、つまり敬い畏まるべきは神であります。神様を恐れる人は神様の命令に従い、神様のきよさと正しさを求めるのです。私たちを救うことも滅すこともできるのは神様だけです。
 
2.私たちは雀よりもすぐれた者である
 
神様は自分の子どものために動物を創造し、自分の子どもを作るために人間を創造されました。このように、人間は動物よりもはるかにすぐれたものであることがわかりますが、どちらに対しても神様の顧みは私たちの想像をはるかに超えるものなのです。小さな雀さえも神様のお許しがなければ地に落ちることはありませんし、人間の髪の毛さえも数えられています。このように、世のすべてのことを神様が掌っていることを私たちは知っていますが、人間には限界があるので神様の奥義をすべて知ることはできません。災害や争いに対して、私たちの罪の故に起こることは少し考えたら理解できますが、すべてのことを理解することはできないのです。しかし、神様に依り頼むとき、私たちには平安があります。神様は愛する人のために、すべてのことを働かせて益としてくださるからです。
 
3.神の子どもとして果たすべき責任
 
神様に祈ること、地上での生活が神様によって祝福されること、患難において、おりにかなった神様からの助けを得られること、神様のご臨在を感じられること、これらは神の子どもとして私たちに与えられた権利です。しかし、権利の役割をしっかり果たさないのであれば、これらの権利は私たちと何の関係もありません。私たちには神様の子どもとして果たすべき責任があります。信仰を持ち、神様を愛し、隣人を自分のことのように愛し、主のために生きることです。世の中には多くの苦難があります。しかし、そのような中でもイエス・キリストの守りと臨在を経験し、ベストでなくとも、責任を果たそうとするのであれば、神様から祝福が与えられます。