「ここに愛がある」山口陽一牧師–2022.04.24


「ここに愛がある」
ヨハネの手紙Ⅰ4:7-12;山口陽一牧師

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 私たちは、キリストの十字架と復活を通して「愛」を知りました。受難週を過ごし、イースターを祝った私たちは、神の「愛」を確かめたのです。
 
日本人は、「愛」という漢字を中国から学びました。しかし、「愛」という言葉を知っていても、その意味を理解していることにはなりません。異性間の愛、肉親の愛、友人の愛、そして、アガペーの愛(無私の愛)。アガペーという言葉はキリスト以前からありましたが、キリストの十字架の死を通して、人はその愛をはじめて知りました。神が人に行なわれた愛。天地万物の創造主が、神に逆らう高慢な罪人のために、ご自身の栄光を捨てて人となり、十字架という最も苦しく恥ずべき刑を受けられました。私たちの身代わりに神の怒りを受け、捨てられるという裁きを受けて下さったのです。2000年前のキリストの受肉、十字架と復活、昇天を通して神の愛が明らかにされました。キリスト教は、この愛によって成り立ちます。この世では、新しいものは古くなり、廃れていきます。しかし、神の愛は、いつも新たに、教会を生かし、私たちを生かしてくださいます。
 
1. ヨハネⅠ4:7〜8:「キリストの教会を愛する」とは、互いに愛し合うこと
最初の教会は、この愛によって生まれました。ここに記されているフレーズを、使徒たちは常に繰り返し語り、身につけていたことでしょう。キリスト教が愛によって成り立つなら、教会もまた愛によって成り立ちます。人は、親の愛・友情・恋愛など、様々な愛を知っていましたが、十字架による贖罪の愛を通して、本当の愛を知りました。
「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう」
これは要求や命令ではなく、互いに愛し合う生き方という”贈りもの”だと思います。小さく些細なことでも、お互いに愛を表し合うことが教会を支えていくことになるのです。
 
2. ヨハネⅠ4:9〜10:私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった
愛は神から始まります。神から離れたために、忘れてしまっていた愛を、キリストの十字架を通して、思い起こさせてくださいました。同志社大学を建てた新島襄氏は、「神がどれほど愛してくださったのかを知るためには、人は己の情けなさを知らなければならない」と言いました。情けなさとは罪の深さのこと。自分の罪の深さを知る人は、裁きを受ける理由が何一つないひとり子が、神の裁きを代わりに受けて下さった贖罪の愛に、驚くばかりです。キリストが、神の怒りを”宥める”ために犠牲となって下さったことを、強く意識して、「ここに愛がある」ことを忘れないようにしましょう。
 
3. ヨハネⅠ4:11〜12:互いに愛し合う教会が神を証する
愛の波及効果。神様に愛されたということがわかると、その人は神から受けた愛を人に与え、その人もまた次の人を愛していく。神は、人に愛を行うために、御子キリストを遣わし、その愛を受け取った人たちを愛する者として遣わします。神は物質として現れることはされませんが、神の愛によって生きる教会を通して、その姿を現しておられます。私たちが互いに愛し合わないと、神様や愛がなくなってしまうわけではありません。しかし、神様からの”贈りもの”として、互いに愛し合う生き方をすることが、私たちの最高の喜びであり、これを通して神様ご自身を現そうとしているのです。
 
この混沌とした時代に、互いに愛し合い、互いに愛し合うことを広げていく教会が、どれほど大事な役割を担っているでしょうか。小さなことでも互いに愛し合うこと。自分が受けた愛を他の人に与えていこう。このような思いを持って、歩んでいきましょう。