「天から下って来た生けるパン」王鋭伝道師–2022.03.27


「天から下って来た生けるパン」
ヨハネの福音書6:41-59;王鋭伝道師

錄音

錄影


 間もなく4月を迎えようとしている。4月は新しい学期や仕事の始まりである。満開の桜の中で、教会に主任牧師が与えられたことを、主に感謝したい。本日のテーマは食べ物と関わりがある。「民は食を以て天と為す」という言葉通り、人間には食べ物が必要である。当時のユダヤ人に対し、この問題は切実であり、凶作が起こると、多くの人が亡くなった。では何を食べないといけないか、これについて、イエス様が教えを与えられた。

 41-42節にて、イエス様は「わたしは天から下って来たパンである」と言われた。しかし、ユダヤ人はそれを見分けることができなかった。これは「見えるが、見えていない」状態である。ユダヤ人は、神の律法を頂戴し、導きを経験したのにも関わらず、信仰はかたくなであった。荒野にいた当時、彼らは天からマナが降ってくる導きを経験した。しかし、マナを食べてお腹が暫時的に満たされても、最後はほとんどが荒野で死んだ。マナどころか、後に神殿は壊され、預言者は亡くなり、王国は滅びた。そんな中、神様はユダヤ人に新しい時代を備えられた。即ち、本当の預言者、永遠のいのちに預かれる食べ物であるイエス様をお与えになったのである。しかし、ユダヤ人はやはり盲目であった。

 私たちもユダヤ人と同じように盲目であり、耳も聞こえず、罪の中で死んでいた。私たちがイエス様を知れたのは、当時のユダヤ人より敬虔だからではなく、恵みのゆえである。この世が造られる前から、イエス様のうちにあって、神が私たちを選ばれた。そして、御霊によって、私たちの目が開かれ、神を知るようになった。「百聞は一見に如かず」という言葉通り、本来人間は目で見て確認しないと信じない生き物だが、キリスト者はそうであってはいけない。パウロが「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と語った通りである。

 私たちが見える物に望みを置くのであれば、必ず失望に至る。マナは腹を満たせるが、それでもやがて朽ちる。しかし、神様に選ばれた者は、霊的な目が開かれ、見えないものが見える。アラム王がエリシャを攻撃した時、エリシャのしもべは大いに慌てたが、エリシャが祈ると、そのしもべは「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて」いるのを見ることができた。私たちはユダヤ人のように、お腹が空いて餓死しそうになっても、しばしの快楽を追い求め、永遠に繋がる祝福を追い求めないようであってはいけない。

 そして、救われるのみならず、主に繋がり続けないといけない。56節にて、イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」と語った。ユダヤ人はこれも、あれも食べてはならないという厳しい戒めが多く存在し、彼らはこの教えを受け入れられなかった。しかし、これが真理である。イエス様がいなければ、私たちは救われていない。そして救われても、主と繋がらないと生きられない。そして、繋がるためには、イエスの肉を飲み、血を飲まなければならない。これは言い換えると、イエス様と私たちが永遠に離れないように、結び合わされることを意味する。私たちの中にイエス様がおられ、イエス様のうちに私たちがいる。そうすれば、御言葉が永遠に私たちを養い、主の愛が永遠に私たちから離れることがない。

 私たちはイエス様についていくため、この生けるパンを食べ、主と繋がる必要がある。これは密接なる関係である。「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と書いてある通りである。どうか神様が私たちを守り、この天から下って来た生けるパンを頂くことができるよう、お祈りしよう。