「イエスのエルサレム入城」鈴木啓明宣教師–2022.03.20


「イエスのエルサレム入城」
ルカの福音書19:28-44;鈴木啓明宣教師

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イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城した記述は4つの福音書全てに記載があります。ここから人々のイエス様に対する期待と失望の関係がわかります。ろばに乗ったイエス様を多くの人が大歓迎しました。しかし、王であるのに白馬ではなくろばに乗っているのは、いかにも弱そうです。群衆が期待していたのは、当時ローマ帝国の占領下にあったイスラエルを解放してくれる王が現れることでした。それは、今のウクライナと同じような状況だったのかもしれません。人々は「ホサナ」と神様をたたえました。これは、もともと「救ってください」という意味の言葉です。ローマから救ってくださいと、イエス様がダビデのように敵を倒してイスラエルを自由にしてほしいと願っていました。当時の王はいわば戦士であり、イエス様は戦ってくださると期待をしていました。しかし、イエス様は十字架で死なれます。簡単に捕まって十字架で死んだイエス様に対して、群衆は疑問をいだきます。良い教えをして、いやしてくれたけど、王ではなかったかもしれない、と思いました。イエス様のエルサレム入城はゼカリヤ9:9で預言されていて、実際に預言通りにイエス様はエルサレムに入城しました。しかし、群衆は誤った期待を抱いていました。ろばでは戦えないし、イエス様には剣も武器も王冠もありません。では、イエス様は王として何から救ったのでしょうか?私達を罪から救うために、いけにえになってくださったのです。そして死を打ち破り、よみがえってくださいました。イエス様はご自分の命を捧げるために借り物のろばでエルサレムに入城しました。

 当時一番興奮したのも弟子たちであり、一番失望したのも弟子たちです。復活のときに一番興奮したのも弟子たちです。イエス様に対する期待が自分の期待することであれば、失望に終わってしまいます。自分の希望をイエス様に期待してはいけません。信じ続ければ、失望することはありません。自分の思い通りの人生でなくても失望することはありません。5年前、10年前にどうしてこうなったのだろうと思うことが、後にあのときはこういう意味だったんだと理解することがあります。もしかしたら、生きている間は理解できないかもしれませんが、将来わかる日が来ます。どうして戦争があるのか?と思っているかもしれませんが、神に絶対的な期待を持ちましょう。

 神様は計画を成就します。イエス様はろばをどこで借りられるかも正確に知っていました(ルカ19:30)。ろばの持ち主も文句を言わず、人を乗せる訓練を受けていないろばも暴れませんでした。ゼカリヤの預言は全て成就しました。神様のご計画が必ず成就するのは、世は神さまの支配下にあるからです。ろばの持ち主も、ろばも、環境も神様の管理下にあります。だから、どんな事が起こっても神様は計画を成し遂げるのです。神様の支配の下では、戦争が起ころうとも制御不能にはなりません。神様を信じているからといって、私達が何もしなくてもよいわけではありません。祈り、自分のできることをします。聖書には「恐れるな」と何度も繰り返し記されています。神様がいつもコントロールしてくださっているから恐れる必要はありません。

 イエス様は感情の豊かなお方でした。冷静沈着に計画を進めるだけでなく、エルサレムにさばきが訪れることを思い、涙を流しました。私達も神様を信頼して恐れなかったとしても、泣いても構わないのです。失望しないとわかっていても泣いても良いのです。信仰があるから落ち込んではいけない、ということはありません。泣いている人に泣くなと言わなくてもいいのです。コロナで愛する人をなくしたり、戦争で大変な状況にあれば、泣いて良いのです。イエス様は自分の命を捧げるためにエルサレムに入城し、自分のためにではなく、自分を受け入れない人たちのために泣きました。

 2000年前イエス様はろばに乗ってやってきました。イエス様の再臨のときは、白馬に乗って来られると黙示録に預言されています。王冠と剣を持ち、悪魔やイエス様を否定する人と戦うためにやってきます。かつて泣かれた目は燃える炎となり、同情や憐れみなく、一切容赦しません。イエス様は義でありさばきの神様だからです。まだ主を信じていない方は、どうかイエス様が目から涙を流している間に神を受け入れてほしいと思います。イエス様が馬に乗るときは、さばきのときです。ゼカリヤの預言は成就しました。黙示録の預言も必ず成就します。