「あなたがたは割礼を受けなさい」王鋭伝道師–2022.03.06


「あなたがたは割礼を受けなさい」
創世記17:9-14;王鋭伝道師

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割礼は男性の包皮を切取る手術です。割礼は苦しみと出血を伴います。神はなぜ民に割礼を与えたのでしょうか。神はアブラハムとの間で契約を立てます。神はアブラハムという新しい名前を与え幸いにあずかる者としました。それから神はアブラハムとその男子の子孫に割礼を受けさせます(創17)。割礼には清めるという意味があります。アブラハムとその子孫は神の清い御国の民とならなければなりません。割礼を受けるとき血が流れます。血は命です。神がアブラハムと契約を結んだ時、動物が切り裂かれて多くの血が流されました(創15)。今回はアブラハムとその子孫が自分の血を流します。割礼には従属関係という意味もあります。アブラハムとその子孫が永遠に神の所属であるということです。アブラハムは99歳で割礼を受けて苦しみを受けます。これはアブラハムの神に対する信仰の現れです。アブラハムが神を信じ神がそれを義と認められました。彼の子孫も割礼を受け続けています。しかし割礼がユダヤ人のアイデンティティと自慢の種となり割礼の本当の意味を忘れてしまいました。本当の割礼とは心の割礼です。ユダヤ人は肉体の割礼を受け肉体の汚れを取り去りましたが心の包皮が取り除かれておらず心は汚れていました。本当の割礼は自分の心、自分の霊的な清め、命にかかわるものです。

 罪の代価は死です。牛や羊また割礼を受けたときの血で自分の罪を贖うことが来ません。死ななければ人の罪をあがなうことができません。イスラエルの民のすべての男子が割礼を受けました。しかし神は彼らの命を奪っていません。これは恵みです。私たちの罪の代価をイエスキリストが代わりに受け本当の割礼を受けたからです。イエス様はユダヤ人の律法によって人の手による割礼を受けました。しかし本当の割礼は十字架の上で受けられました。人の手による割礼は包皮の一部を切除するだけですが十字架の上でイエスキリストは私たちの罪の為に命が切り取られました。割礼で流れる血はわずかです。イエスキリストは十字架の上で血を全て流しました。ユダヤ人は生まれてから8日目に人の手によって割礼を受けます。しかし本当の割礼はイエスキリストの十字架です。イエスキリストの命が十字架の上で切り捨てられ血潮を流しました。死んで葬られよみに下り死人の内よりよみがえりました。そしてイエスキリストを信じる者はイエスキリストが流してくださった血潮ゆえに本当の意味で割礼を受けたことになります。私たちがイエスキリストを信じると決心をした時、洗礼でイエスキリストと共に死に共によみがえった時本当の割礼を受けたのです。イエスキリストと共に死んで共によみがえりました(割礼は命に関わるものです)。イエス様を信じる者はイエス様の血潮で外から中まで清められています(割礼は清めに関わるものです)。信じて受けたものが神の家族の一員です(割礼は主従関係に関わるものです)。神の国民です。これらはイエスキリストにある幸いです。

 一部の人は儀式を神としています。初代教会のユダヤ人には割礼を受けモーセの律法を守らなければ神の国の人になれないと教えていた人がいました。そういう人に対してパウロは「もし割礼を受けるならキリストの恵みは貴方に関係のない者になります」と言っています(ガラ5;5-6)。本当の割礼は心と信仰に関わるものです。イエスキリストにあって私たちは本当の割礼を受けました。モーセの律法の束縛から解放されました。私たちは新しく造られた者です。

 教会が儀式を重んじるのは神が立てられたからです。儀式を偶像にしてはいけません。イエスキリストを信じることでのみで私たちは救われます。アブラハムも神を信じることによって義と認められました。私たちはイエスキリストを捉え繋がりましょう。イエスキリストをかぶらなければなりません。イエスキリストが私たちの全てです。