「パリサイ人と取税人の祈り」鈴木啓明宣教師–2022.02.20


「パリサイ人と取税人の祈り」
ルカの福音書18:9-14;鈴木啓明宣教師

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今日の聖書箇所は、宮に来た二人の人、パリサイ人と取税人に関して書かれています。明らかに取税人が良く書かれていますが、果たしてパリサイ人は悪い人なのでしょうか。パリサイ人は祈っています(11節)。私たちはなかなか祈れないので、祈れることは良いことです。また、11節の最後でパリサイ人は感謝しています。これも良いことです。私たちは祈るとき、いつもお願いばかりして感謝を忘れがちです。更には週に二回断食をしています(12節)。これは悪いことではありません。すべての物から十分の一をささげているパリサイ人は敬虔な人と言えます。しかし、イエス様はそんなパリサイ人をよく思っていません。パリサイ人の問題はどこでしょうか?

パリサイ人は自分のことを義人だと自任しています。義人とは神様の前で正しく、神様に受け入れられる人のことです。個人的に確信していることを、神様も同じように思っているかはわかりません。パリサイ人は自分で個人的に義人だと思っていることが問題です。

パリサイ人は他人を見下しています。自分が取税人のようでなくてよかったと言っています(11節)。これが義人を自任する根拠です。他人と比較して自分は正しいと思っています。断食やささげものを他人と比べて、そして自分の敬虔さを誇っています。他人を見下し、自分が義人だとして自任しているのがパリサイ人です。パリサイ人は取税人の職業でその人を判断しています。私たちも収入や職業で他人を判断してしまうことがあります。他人を見下す理由は自分が上に立ちたいという願望からです。人がバベルの塔を建てた目的は、「われわれが全地に散らされるといけないから」(創世記11:4)でした。不安を感じていたのです。自分の居場所、立場、地位等の不安を払拭するために他人より上に立とうとします。自分が上に立たないと不安で落ち着かないのです。人には不安があるから、他人を低くするのです。

どうしたら神様から義人と認められるのでしょうか。取税人は目を天に向けようとせず、悔恨の念で一言だけ祈っています。自分が神様に受け入れられると思っていません。取税人は神様の憐れみのみを求めています。それは、自分は値しないけれども赦してくださいという思いです。これこそが、神様に義と認められることです。それをイエス様が明確に教えてくださっています。取税人は、もともと低かった自分の低さを認めたのです。あえて低くしたのではありません。自分の低さを知っているので、他人と比較しません。自分が一番下だということをわかっているのです。

重要なことは、取税人はわざわざ宮に祈りに来ていることです。遠くに立ちながらも、宮に来たのです。値しなくてもふさわしくなくても、神様の前に出て祈らなくてはいけないことをここからわかります。長年クリスチャンとして生きてきても、神様のもとに来ようとしないことがあります。聖霊が働き、聖書を読み、たくさんの説教を聞き、今まで罪だとも思っていなかったことも罪だと知るようになります。自分のプライドに気付いて、自分が嫌になり、神様の前に出たくなくなり、同じ罪を繰り返し、祈りたくなくなります。それは自分の低さに気付き出しているからです。

私たちも取税人のように、神様の前に出て、一言「私は罪人です。憐れんでください」と祈らなくてはいけません。そうすれば義人になります。

パリサイ人は取税人を罪人と決めつけ、憐れまずに見下しました。イエス様は十字架で人に見下されました。そして、イエス様は高くされ、神様の右の座についたのです。

取税人は義と認められ、家に帰りました。パリサイ人はどうだったでしょうか?自分で自分を高くしようとする者は、死んだ後どこに行くかわかりません。取税人のように自分を低くするものは、最後には天の父が待っている家に帰ることができます。神様に「おかえり」と言ってもらえるよう、「神様、こんな罪人の私を憐れんでください」と祈りましょう。