「失われたたましいを愛すべき」上辻洋平牧師–2022.02.13


「失われたたましいを愛すべき」
マタイの福音書9:35-38;上辻洋平牧師

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福音伝道をする時、私たちは、心がきよくなり、失われたたましいを愛する心が与えられるよう祈らなければなりません。

私たちが何かを話す時、それが神様の栄光を表しているのか、相手を躓かせているのかを気をつけなければならないのです。聖書は、柔和であり、言論一致であり、人の徳を養うことに役立つ言葉を話すよう教えています。私たちがキリストの愛を語る時は、キリストの思いを自分の思いとしなければなりません。イエス様は世人を愛されました。では、どのようにしてこの失われたたましいを愛されたのでしょう。
 
1.主イエスの憐れみの心
 
イエス様は常に憐れみの心をもって福音伝道をしていました。憐れみは愛の表現です。憐れみには、受け入れ、赦し、同情、無償の愛という美徳があり、無償の差し出しでもあります。聖書には、悔い改めた息子を受け入れた父親の話しがあります。多くの罪を犯した息子がやがて父親のところへ帰り、父は息子を無条件に受け入れ、続けて息子としての身分も持たせました。これは父親の憐れみであり、父なる神と私たちはまさにこのような関係なのです。父なる神は慈しみ深く、憐れみ深い神であります。
 
イエス様が福音を伝えていた人々は、必ずしもイエス様を愛する人ではなく、イエス様を裏切った人や十字架につけるよう叫んだ人もいました。しかし、イエス様は彼らのたましいを愛されました。神様から離れていくたましいを見ることに耐えられない思いでいたのです。これこそがイエス様の憐れみの心であります。私たちにたましいを愛する心がなければ、その人たちが失われていくのをただ見送るだけになります。見て見ぬふりをするのではなく、イエス様の愛でもって人を愛し、心を尽くしましょう。
 
2.収穫の主に、働き人を送ってくださるように祈る
 
教会に与えられた使命は、福音伝道と弟子訓練です。クリスチャンにとって人々に対しての究極的な憐みとは、人々が主を信じるよう導き、たましいを救うことです。そのためには永遠のいのちと永遠の死についてしっかりと理解しなければなりません。正しく理解するのであれば、福音伝道の重要性も自ずと理解できます。
 
収穫が多いということは、世の中には福音を必要としているところが多いということです。私たちが神様に委ねられていることは、福音を地の果てまで伝えることです。どの人も神様に用いられるよう祈り、召を受けたのであれば出かけていかなければなりません。教会とは建物のことだけではなく、クリスチャン一人一人が教会なのです。教会の責任とは、私たち一人一人の責任ということです。
 
時間を使って自分を訓練し、神様に用いられるよう自分を備えましょう。神様に与えられた時間をおろそかにせず、失われた
たましいに心を寄せましょう。永遠のいのちと永遠の死についてもう一度考え、収穫のための働き手となれるよう祈りましょう。