「姦淫で捕らえられた女」鈴木啓明宣教師–2022.01.16


「姦淫で捕らえられた女」
ヨハネの福音書8:1-11;鈴木啓明宣教師

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姦淫の場で捕らえられたひとりの女が、律法学者とパリサイ人にイエス様の前に連れてこられました(ヨハネ8:3)。夫ではない人とベッドにいた現場を押さえられたのです。女は恥を感じていたはずです。後悔もしていたでしょう。しかし、相手の男は逃げたのでしょうか?もしかしたら地位のある人だったのかもしれません。女だけが男たちに捕まえられたことは、不公平であり同情します。 
「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(8:5)と律法学者はイエス様を先生と呼んで(8:4)、イエス様を告発しようとしました。イエス様は、女を石打ちにしないという律法に背く選択か、モーセの律法を守って女を石打ちにするという二つの選択があります。当時、石打ちにされるということはなかったと言います。なぜならローマの支配下であり、ローマ政府の許可なく死刑にするのは問題だったからです。律法学者たちはイエス様を陥れようとしていました。 
イエス様は地面に字を書いていて、最初は彼らの質問にお答えになりませんでしたが(8:6)、のちに回答しました(8:7)。イエス様は、聖書を引用しながら回答したのです(申命記17:7)。イエス様は聖書の先生であり、聖書を使って正確に答えました。それに対して律法学者たちは自分の罪に対して恥じたのです(8:9)。最初に恥を感じたのは女でした。しかし、イエス様を辱めようとする人は、自分が辱められることになります。この法則は、クリスチャンを辱めようとする人にも当てはまります。 
男たちは自分の罪を認めて、謙虚に立ち去りました。他人からのリスペクトを失いたくないと、謙虚になることはできません。罪を認められず、傲慢になってしまいます。罪を認めた時に謙虚になり、初めて他人からリスペクトされるようになります。 
当時年長者は権威がありました。権威のある年長者が去れば、若い人たちはその場に残ることができません(8:9)。イエス様が最も権威あるお方です。 
女はゆるしに値するでしょうか。イエス様は罪のない者が石を投げなさい(8:7)とおっしゃいました。石を投げる資格があるのはイエス様だけです。しかし、イエス様は石を投げていません。女は裁きを見逃してもらえたのです。それはいつくしみです。神様は人をすぐにゆるしてくださいます。都合がよすぎる話かもしれませんが、そうでないと人は救われません。裁きがなければ、何をしてもいいのでしょうか。裁かない根拠はいつくしみと十字架です。イエス様は女の代わりに十字架で石を投げられ、裁かれました。イエス様が全ての罪を背負ってくださるから、私たちは裁かれません。しかし、私たちが罪を犯したとき、自分自身だけが自分を裁いてしまいます。過去の過ちをいつまでもさばき続けます。イエス様がゆるしてくださったように、自分のこともゆるしましょう。自分自身を含め、だれもだれかを罪に定めてはいけません。十字架を見上げ、神様のいつくしみを知りましょう。神様は最初から最後までいつくしみを示してくださっています。 
イエス様は女と目を合わせませんでした。女は恥ずかしく、おびえていました。大人も子供も嘘をつくと人と目を合わせようとしません。姦淫の現場を押さえられた女は、ゆるされても町で人と目を合わせたくはなかったでしょう。しかし、女を捕まえた男たちは自分の罪を認めました。イエス様は女をゆるすだけでなく、今後も辱められずにしっかり生きていけるようにしてくださいました。もし、ゆるすだけだったら、女は今後も男たちに辱められ、つらい一生を送ったかもしれません。奴隷は解放されただけでは不十分です。カナンでしっかり生きていけるよう神様は備えてくださいました。どんなに恥ずかしい過去があっても神様のもとに来れば、威厳を持って生きていくことができるようになります。女は「今から決して罪を犯してはなりません」とイエス様に言われました。 
罪を認めていないのは姦淫の相手の男だけです。彼は現場から逃れられて助かったと思っていたかもしれません。しかし、本当に助かったのは女です。私たちが隠している罪も、神様はご存知です。神様の前に来て、しっかりと罪を告白すれば、「わたしもあなたを罪に定めない。」と神様はおっしゃってくださいます。