「五つのパンと二匹の魚」王鋭伝道師–2021.12.26


「五つのパンと二匹の魚」
ヨハネの福音書6:1-15;王鋭伝道師

錄音

錄影

文字

  今日の聖書箇所は4つの福音書全てに記載のある大きな奇蹟です。イエス・キリストが神の御子であり、イエス様を信じることで私達が救われることを証しています。キリストがメシアであることも証しています。イスラエルを救い、この世を救うお方としての証です。もう一方で、キリストの憐れみをも証しています。

 1節には「その後」と記されています。ヨハネの5章では、38年間寝たきりの人が床をあげて歩けるようになったことが記されています。安息日に病を癒したことで、イエス様は批判や迫害を受け、エルサレムを離れてガリラヤにやってきました。律法に通じているイスラエルのリーダーたちはイエス様を嫌いましたが、普通の人たちは違いました。普通の人は、こうしてメッセージを聞いている間にもランチに何を食べようか、明日の朝食は何を作ろうかと考えていることでしょう。同じように、当時のイスラエルのリーダーたちが安息日に病を癒すことに腹を立てているのとは逆に、普通の人は病が癒やされたことに素直に喜んでいました。癒しは人気の賜物です。癒しの噂はガリラヤにも伝わっており、イエス様の地上の奉仕での中で最も多くの人が集まりました。彼らは貧しく、病をわずらい、飢えて、迫害にあっていました。当時のイスラエルはローマの植民地でした。ユダヤ人たちは日常の様々なことでローマ人から迫害され、常に革命を起こそうとしていました。そんなユダヤ人はイエス様に対して大きな期待を持っていました。病を癒してほしい、我々の王になってほしいと思っていました。彼らの信仰は偽物で、イエス様を捨てました。

 今日の聖書箇所からは、特にイエス様の憐れみがわかります。人は人の気持ちがわかりませんが、イエス様は人の気持ちがわかります。人の将来もご存知です。イエス様は彼らを深く憐れみ、信じていない人たち、自分を的に売り渡そうとしている人を憐れみました。憐れみとは愛です。ふさわしくない人を愛し、自分を恨む人を愛することです。初代の信徒たちも弟子たちも憐れみに欠けていました。イエス様は12人の使えない弟子たちと2万人の自分を裏切る人たちに対して憐れみと力を証しました。少年が差し出した五つのパンと二匹を用いて彼らを養いました。旧約時代のイスラエルにはたくさんの預言者がいました。偉大な預言者と呼ばれたのはモーセです。モーセは預言者であり、権力者であり、イスラエルの救い主、リーダーでした。神様は将来このような預言者を起こすと言われました。差し出された五つのパンと二匹により2万人が養われ、食べ残しのゴミがトラック2台分も出たのを見たなら、イエス様が救い主だと思うでしょう。

 メッセージを語る者と聴衆は互いに影響しあいます。語るものは聴衆の表情を見て、聴衆の聞きたいものを話しがちです。聴衆が熱狂してれば、語る者はより過激な内容を語ろうとします。イエス様は自分がユダヤ人の王にされそうなのをご存知で、山に退かれました。誘惑から逃れたのです。なぜなら、ユダヤ人の王になることは天の御父のご計画ではないからです。当時の人達はメシアに対して大きな誤解をしていました。弟子たちもメシアに対して誤った期待を持っていました。イスラエルのみの救い主を期待していたからです。

 クリスチャンも福音に対して誤解しています。福音を自分の理想や政治と混同するのは誤りです。この地上は私達ののぞみではありません。イエス様の国はこの世のものではないけれども、この世のものより勝っています。福音を愛国主義と混同してはいけません。

 教会の第一の使命は福音伝道です。イエス様は憐れみの使命も持っていました。今日の教会も同様でなくてはいけません。しかし、憐れむことが教会の目的ではありません。純粋に哀れみを持つことです。イエス様はご自分を信じないで裏切ることを知っている2万人に対して憐れまれました。私達が憐れむとき、功利主義ではいけません。私達の愛を抽象化してはいけません。イエス様は私達にその模範を示されました。