「イエスについて行く」上辻洋平牧師–2021.10.31


「イエスについて行く」
マタイの福音書8:14-22;上辻洋平牧師

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世の中には野次馬のようにイエス様を周りから見ている人とイエス様に近づく人に分かれます。前者は後にイエス様から離れて行きます。後者は使徒なり殉教もいとわず福音を世界に伝えました。彼らはどのようにして困難に立ち向かったのでしょうか。

1.旧約の予言と主の恵み。
14-17節、イエス様は、多くの人の悪霊を追い出し、病をお癒しになりました。奇跡を通して自らの身分を証明し福音を伝えたかったのです。奇跡を見てイエス様に従った人もいました。しかしイエス様の奇跡を見たからと言って皆が弟子になろうと思ったとは限りません。彼らは奇跡をパフォーマンスとしか捉えることができませんでした。中には妬みをもってイエス様を殺そうと思う人もいました。イエス様はなぜ人を癒す必要があったでしょうか。イエス様は私たちの煩いを身に引き受け病を背負ってくださいました。イエス様がそれを私たち自身で出来ないことをご存じだからです。ですからイエス様は私たちがイエス様によりすがっていくことができるようにしてくださいました。

2.イエス様に従って行く。
私たちは、イエス様の周りで見ているだけの人になるのか、イエス様に従う人になるのか決心が必要です。神は、神を知れば知るほど私たちを新しい人に変え神に従うことができる者にしてくださいます。「私についていきたいと思うなら自分十字架を追いなさい」自らの十字架を背負うとは、イエス様の様に十字架を背負って歩むことです。イエス様と共に生き死ぬことです。古い自分を十字架につけて初めてイエス様と共に死に復活するのです。クリスチャンは自分の為に生きるのでなくキリストの為に生きるのです。イエス様が悪霊を追い出したのは愛の故でした。しかしパリサイ人はイエス様が悪霊の頭によって悪霊を追い出したと言いました。彼らがこのような言葉を発したのは私利私欲のためです。自分のために生きる時、私たちは自分の利益のために人を傷つけます。私たちがイエス様を信じるのは自分のためですかキリストのためですか。自分の栄光のためですか神の栄光のためですか。私たちは絶えず自らの心の見る必要があります。その時、神は私たち心を照らしてくださいます。私たちが自らを顧みて変わろうとする時、聖霊の印を見ることができます。神の栄光の為に生きることは謙遜を覚え、遜りを覚え、人を自分の様に愛することを覚えることです。しかし私たちはイエス様の様に愛をもって人を受け入れることができません。ですから決して自分の目で人を測ったりしないでください。測るのは神です。私たちは霊的な目で測られる要があります。そうすると霊的に欠けている所を発見することがでます。

3.イエス様に従う事の代価
18-22節、イエス様は律法学者に「狐には穴があり、鳥には巣があるが、人の子にはまくらするところもありません。」と言いました。イエス様は、私について来るなら、あなたはさすらい人となり自分の思うような生活をすることができないが私に従いますかということです。イエス様に従う時、代価を払う必要があることを教えています。担うことができる代価です。私たちが自らを主に捧げる時、主は私たちに必要なものを備えてくださいます。ですから恐れる必要がありません。

イエス様に従って行こうとした人がいました。しかし彼の父が亡くなったので先に葬ることを許してくださいとイエス様に言いました。イエス様は彼に「私についてきなさい、死人たちに彼らの中の死人を葬らせなさ」と仰いました。言葉を言い換えるなら、あなたは人を葬るよりも伝道することによって人の霊を救ったらどうですかということです。私たちがすべきことはイエス様に従うことです。その人はイエス様から多くの恵みを受け成長します。天国の麗しさを見ることができます。福音を述べ伝えたいと思うようになります。イエス様に近づく人にイエス様も近づいてくださいます。イエス様の内に留まる人の思いを守ってくださいます。