「三十八年の病気がいやされた」王鋭伝道師–2021.10.24


「三十八年の病気がいやされた」
ヨハネの福音書5:1-18;王鋭伝道師

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ヨハネ1章は、イエス様こそ救いをもたらす真の光であることを教えている。光はこの世を救いに導こうとしたが、世はその光に敵対し、呑み込もうとした。本日の聖書箇所もこのことについて説いている。イエス様は三十八年の間病に冒された人を癒されたが、それを見たユダヤ人はイエス様を殺害する念頭を抱いた。この世は常に暗闇であり、私たちが福音を宣べ伝えようとするとき、同様に迫害に遭う。迫害に対して、驚いてはいけない。また、信仰を堅く保つ必要がある。なぜなら「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」からである。

さて、ユダヤ人が過ごす祭りの時期に、イエス様がエルサレムに来られた。聖書によれば、エルサレムには、「ベテスダ」と呼ばれる池があった。この池は宮の北側にあり、恐らくいけにえをきよめるために用いられていた。その池の近くに「大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せていた」とある。病院は当時存在せず、絶望した病人が集まっていたのであろう。言い伝えによれば、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かし、水が動いた時に最初に入る者はどんな病気でもいやされたとのこと。これは明らかな迷信であったが、多くの人が信じていた。

ユダヤ人は、神様から聖なる宮、契約の箱、律法など、多くの恵みが与えられていた。これらの恵みを活かし、神様に近づくことができたはず。しかし、ユダヤ人は、与えられたこれらのもの自身を、自分たちの望みと希望にしてしまった。池に飛び込めば癒されるという迷信を信じたのも、これと密接に関係がある。自分の目で見えるものを拝んではいけない。なぜなら、それは偶像礼拝であるから。今日においても、例えばカトリックはイエス様の生みの親であるマリア、十二使徒、そして歴史上の聖人と呼ばれる人たちを拝んだりするが、これも偶像礼拝である。

そんな中、38年間病気にかかっていた人がいた。彼は自分で動けず、何の望みもなかった。イエス様が彼の目の前に現れ、「よくなりたいか」と聞いても、イエス様が癒しの力を持っていることを信じなかった。彼は「池の中に私を入れてくれる人がいません」と答えた。彼はイエス様に救いを求めず、この迷信のみ信じていた。しかし、このような人に対しても、イエス様は「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。彼は癒され、床を取り上げて歩き出した。イエス様の癒しはすぐに、また完全に働かれる。暗闇の中にいた人が、光に照らされたのである。

このような奇跡が起きたならば、私たちはきっと喜び踊るだろう。しかしユダヤ人の反応は違った。彼らは癒された人に対し、「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない」と言った。実は安息日は普段の仕事をしてはいけない、また火を起こしてはいけないについて教えているが、床を上げてはいけないとは教えていない。床を上げてはいけないとは、神様に与えられた律法に、ユダヤ人が追加で書き加えた、自分たちの言い伝えに過ぎない。彼らの目に映ったのは、自分たちの伝統が冒された、ということのみであった。彼らは真の光を受け入れられなかった。

一方、癒された人はユダヤ人に、彼を直したのはイエス様であることを伝えた。これはイエス様を裏切る行為であった。この証言を基に、「ユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたから」とある。彼にとって、イエス様は救い主ではなく、「私を直してくださった方」に過ぎず、ついにイエス様を本当に知ることがなかった。私たちもイエス様に対し、このような態度を抱く時がある。イエス様を崇拝すべき神ではなく、単に良い仕事が見つかるために、病が癒されるためだけに利用する対象として見てしまうことがある。

ヨハネの福音書は一環して、光が何度もこの世の中を照らしたが、闇は光を受け入れなかったことについて描いている。イエス様は多くの奇跡を起こされたが、人々はイエス様を迫害した。イエス様が地上で働かれる中、苦しみを与え続け、そして最後は十字架でイエス様を殺害した。それでも「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」ことは真実である。なぜなら、イエス様は後によみがえり、死に打ち勝ったからである。今日も、私たちは勝利を得られたイエス様に目を向け、イエス様の弟子として、光となりこの世を照らし続ける必要がある。