「信仰の力」上辻洋平牧師–2021.10.10


「信仰の力」
マタイの福音書8:1-13;上辻洋平牧師

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信仰は私たちクリスチャンが慕い求めるものですが、試練が訪れた時、私たちは信仰を100%表し尽くすことができません。このような矛盾が生じるのは、クリスチャンの信仰をご利益宗教と勘違いするからです。聖書を読めば読むほど、知れば知るほどキリスト教の信仰は宗教にとどまらないことがわかります。聖書は私たちに、この世界がどのように造られ、動いているか、人間がどのように造られたのか、この世界を造られた神は私たちをも造られた父なる神であること、私たちがどのような状態であれ、神と私たちの関係は変わらないことを教えています。ですから、このような心構えであれば神様を経験し、神様に対する信仰がなくなることはありません。神を知るという信仰は非常に大切です。
 
1.主のお心一つの信仰
 
 イエス・キリストは福音伝道を始めてから多くの奇跡を行いましたが、ユダヤ人は神様のみもとに戻ることはありませんでした。もし、ユダヤ人の中で行った奇跡を異邦人の中で行えば、彼らは泣いて悔い改めたでしょう。イエス様は聖書の中でこのように言われたのです。それから、イエス様はユダヤ人の中で奇跡を行う回数が徐々に減り、本当に必要な人にだけ奇跡を行いました。このように、人間は奇跡を見ても、必ずしもイエス・キリストを信じるとは限らないのです。心からイエス・キリストを信じる人は、奇跡を見なくても信じるのです。信仰とは、目に見えない約束を信じることです。ある時、ツァラアトに冒された人がイエス・キリストのみもとに来て平伏しました。当時、ツァラアトは治らない病気でした。ですから、ツァラアトに冒されたら社会から隔離されなければならないのです。彼はイエス・キリストに主権があることを認めていました。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」このように、主の御こころを求め、すべての結果に従うのであれば、神様はすべてのことを働かせて益としてくださるのです。私たちが神様に求めるものは、自分が欲しいものです。しかし、神様だけが私たちに必要なもの、将来何が起こるかをご存知なのです。
 
 
2.キリストの権威を信じる
 
 ローマの軍人たちは権威についてよく理解していました。百人隊長はイスラエルという植民地に住んでいるローマの兵士です。当時はユダヤ人でも、ローマの兵士たちを敬わなければなりませんでした。そのような時代の中で、百人隊長はユダヤ人であるイエス・キリストを「主」と呼んだのです。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」百人隊長はイエス・キリストが自分よりも上のお方であると認識していました。そして、自身も権威の下にあるので、命令だけいただければイエス様が家まで赴かなくても物事が成就することをを理解していました。私たちが神様に対して祈り願う時、神様の御こころに従って物事を成就していただくという気持ちを持たなければなりません。イエス・キリストの御こころがあれば、すべてのことが可能になると信じることが大切なのです。百人隊長には、イエス・キリストのおことばがあれば自分のしもべはなおるという大きな信仰がありました。
 
3.信仰がないとどうなるのか
 
 イスラエル人について、「口では信じると言いながら心では信じない人たち」と、イエス・キリストは言われます。イエス様は、百人隊長のお祈りを聴いたあとイスラエル人に「もし、あなた方が口で信じると言いながら心で信じないのであれば、将来、外の暗闇に放り出される人になります」と警告しました。これは、異邦人が救われるという預言です。イスラエル人は、イスラエル人として生まれたものは救われると信じていたのです。しかし、神様の約束を信じる人が本当のイスラエル人であり、イエス・キリストがメシヤであることを信じる人が、将来、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに食卓につきます。心で信じ、口で告白し、イエス・キリストがメシヤであること、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかられたことを信じているのであれば、将来、天国に入れると、聖書ははっきり教えています。私たちは、すべてのことにおいて神が主であることを認めなければなりません。神様がなさるすべてのことは、私たちが救われるためであり、私たちを愛するが故です。
 
 信仰によって成就されることは、自然的な能力を超えて行われる奇跡だけではなく、信仰は私たちの心と思いを変えてくださり、神様に従うことができるようにしてくださること、これが本当の奇跡です。