「実によって人を見分ける」上辻洋平牧師–2021.09.19


「実によって人を見分ける」
マタイの福音書7:15-29;上辻洋平牧師

錄音

錄影

文字

 私達は実によって人を見分けることができます。エホバの証人等は、彼らの教えが聖書の教えと異なるとかんたんに見分けることができますが、聖書の教えをよくわかっていないと見分けがつかないものもあります。そのような教えの教会の礼拝は一見ごく普通の礼拝のように感じますが、彼らの教えの核心はそうではありません。人々を洗脳していく異端の教会もあります。今の世の中は情報過多で、ネットにあふれる情報は玉石混交です。私達は聖書の教えに関するネット上の情報の取り扱いにも注意しなくてはいけません。聖書の教えに関するネット上の情報も、取り扱いに気をつけなくてはいけません。私達は教えを聞くだけではなく、それを実践しなければなりません。もしそうしないのであれば、宝の持ち腐れと言えます。私達が実を結ばなければ、他の人は私達がイエス様の弟子であると見分けることができません。
 
 私達の信仰で最も重要なのは、偽預言者に気をつけることです(マタイ7:15−19節)。偽預言者は羊の皮をかぶっています。わざわざ黙示録を解釈することを好みます。啓示神学によって自分の理論を証明されたといってはいけません。迫害するリーダーとして過去にはネロやヒットラー等、反キリストの解釈は時代によって変わっていきました。私達は相手が御霊の実が結ばれているかどうかで、偽預言者かどうかを見分けることができます。その人は自分を捨てているのか、もしくは他人から益を受けようとするのか。御霊の実を結んでいるか否かを、自分の好みで判断してはいけません。神様の御言葉に従っているかどうかが大切です。他人を裁くならば、私達も同じように裁かれます。言動が聖書の教えと合致しているかを見分けなくてはいけません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます(19節)。
 
 イエス様を主と呼ぶものがみな天の御国に入れるわけではありません。神様が知らない人は、その人自身も神様のことを知らないでしょう。その人の中に御霊が住んでいないから、イエス様がその人を知らないと言うのです。キリスト教の教えを受け入れているように見えても、イエス様がその人の中に住んでいません。その人は、宗教から利益を得ようとしています。私は今まで多くの信仰の先輩のお見舞いに行きました。彼らは自分がこれまで何をやってきたかと誇るのではなく、却って自分は罪人にすぎないのでどうか祈ってほしい、自分には神様のあわれみが必要だと言います。御心を行うとは苦行をすることではありません。律法は罪をあきらかにするものです(ローマ7章)。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう(ヤコブ2:24)。
 
 人と神を愛するとは、単なるスローガンではありません。自分自身の弱さを覚えるのは悪いことではありません。御霊が心のなかに住んでいれば、私達は神様の御心を行いたいと思います。本当にイエス様を知っている人は神様に従順です。偉大な預言者は、自分の言葉を語るのではなく、神様に何をしたら良いのかをたずねました。
 
 素晴らしい教えとは、それを聞いたらやってみたいと思う教えです。主に何かをやってもらったから、私達も何かをやらなくてはいけないという等価交換のようなものではありません。神様が不要だと言うのは、悪いことをして親に叱られた子供が自分の親を要らないと言っているようなものです。もし自分の子供に親なんていらないと言われたらどう思うでしょうか。私達は御国の教えを守る必要があります。教えに忠実であれば、家を岩の上に建てるようなものです。
 
 私達の生涯で結ぶ実は良い実でしょうか、悪い実でしょうか。私達が良い木かどうかは、イエス様がご存知です。私達は岩の上に家を建てるのでしょうか、それとも砂の上に家を建てるのでしょうか。