「人の計画と主の導き」鈴木啓明宣教師–2021.09.05


「人の計画と主の導き」
コリント人への手紙Ⅱ1:12-2:1;鈴木啓明宣教師

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 本日の聖書箇所12節を皆さんと読みたいと思います。『私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです』パウロはここで彼らの行動は誇りであると言っています。しかし聖書では人間的なものに誇りを持つべきではないと教えています。では彼らはなぜ自分達の行いが誇りだと言っているのか。それは彼の行動は神の恵みで、彼が誇りに思っているのは神の恵みだからです。私達は人と比べてどれだけ富や名誉を持っているかを誇ります。霊的にも同様です。しかし重要なのは人間を認めるのか神を認めるのかということです。パウロは自分の聖さは神から来ていると認め、誠実さもやはり神から来ると言っています。聖さも誠実さも恵も全て神から出ている。だから自分の行いを誇れるのです。
パウロはこの12節を言ったあとに面白い話をします。何故かというと当時パウロとコリント人との関係が良くなかったからです。コリント人のパウロへの誤解や理解不足、偽教師によるコリント教会への悪影響があったためです。そのギクシャクした関係が15節に書かれています。パウロはコリントへ2回訪問する計画を立てました。訪問の目的は相手に恵みを与えること。2回の訪問で2度恵みを与えるつもりでした。しかし実はこの計画の前に彼はまずコリントに1回訪問するという計画を立てています(1コリント16)なのにそれを変更し、コリント→マケドニヤ→再びコリント→ユダヤという訪問計画に直したのです。しかも更に計画を変更します。それが23節「わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりのためです」と言っています。行く行くと言って行かずにまた変更です。ここで注目したいのは、パウロは12節であんなに聖く誠実で神の恵みで行動しているにも関わらず2度も計画を変更していることです。これは彼らの関係をよりギクシャクさせます。異端や偽教師はコリント人に、パウロは計画を変更してばかりで信頼できない。そんな男が伝える福音も信頼できないと言い、コリントの人はパウロが来ないことに失望したでしょう。
 パウロは17節から弁明します「この計画を立てた私がどうして軽率でありえたでしょう」計画を変更したことは軽率だったのか、と言っているわけですが勿論違います。動機は恵みを与えることで、軽率どころか聖く誠実で神の恵みで行動していました。また24節でも、あなたがたの喜びのために奉仕していると言っています。
そして20節でこの度重なる計画の変更が決して問題ではないことを彼はイエス様を用いて説明します。これは非常に面白いです。神様の約束はことごとくイエス様で成就していった。それを引用しながら21節から、神様の素晴らしさがイエス様に現れたように、この素晴らしい関係が私達にも引き継がれていると言っています。21節の油を注がれたとは、神は特別に選んだ者に力を与え、神の計画を実行するよう油を注がれるということ。つまり神の力がパウロ含め私たちにも宿って、それは神の約束を実現するためだと言いうことです。ですから今回の計画の変更はパウロがいい加減なクリスチャンだからではなく、批判されるに値しない。よって今まで伝えた福音も信頼に値するということです。パウロ自身訪問計画を変更したことを一切後悔していません。神が働いて下さっていることを彼自身が知っているからです。
 
<まとめ>
1)私達が計画を立てる時、それは人の知恵ではなく神の聖さ誠実さ恵みによります。2)そのようなプロセスで計画を立てても変更を要する時があるでしょう。特に今コロナの時期、決断に苦労することがあるかもしれません。どうすればいいのか、自分の知恵を絞って結論を出すより、神に祈り決断を託す。もしそれが違っていたなら計画を変更できるよう神に導いていただく。それが神に基づくものならパウロのように後悔することはありません。3)計画を変更したらパウロのように批判され動機を疑われるかもしれませんが、恐れてはいけません。最終的に私たちが決断するのは神のためであり、人を喜ばすためではないのです。4)兄弟姉妹が計画を変更しても、またあの兄弟姉妹は計画を変更したと非難せず、その変更を神の導きだと受け入れサポートするべきです。5)私たちが誇れるのは神だけです。礼拝に出られる、聖書を読める、祈れることも神の恵みです。このコロナ禍で生きて行けるのは神の守りがあるからです。