「ペテロの変化」鈴木啓明宣教師–2021.08.22


「ペテロの変化」
使徒の働き4:1-22;鈴木啓明宣教師

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 イエス様が捕まった時、ペテロは3度も主を否定した。しかし、そんな彼がイエス様の復活を宣べ伝えるようになった(2節)。彼は捉えられ、尋問を受ける(6節)。イエス様はピラトの元で尋問を受け、十字架に掛かった。ペテロが同じ運命をたどることも十分に考えられた。尋問を受けた際、ペテロは使徒の働き3章にて起こった出来事について触れた(9節)。即ち、エルサレムで人々の施しを受けていた、足のきかない男がイエス様の力により、ペテロを通して癒され、歩けるようになった出来事である。ペテロは大祭司に面と向かって「この人が治って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ…イエス・キリストの御名による」と言われた(10節)。自らの命を危険にさらしてでも、イエス様を伝えたのである。なぜ、イエス様がそばにいる状況でイエス様を否定したペテロが、イエス様がいない状況でイエス様を伝えようとしたのか。5つ理由を挙げたい。
 1)イエス様が復活したから:10節にあるように、神様がイエス様を復活させた。即ち、イエス様は単なる先生でも、或いは革命家でもなく、神の子であり、救い主であることが証明されたことを、ペテロは理解していた。
 2)イエス様の復活を信じれば、自分も復活するから:十字架に掛かる可能性が十分にあるのにも関わらず、ペテロは十字架の先を見据えていた。即ち、十字架での死が死で終わらず、イエス様が復活されたことを信じれば、自分も復活するという確信があった。
 3)足のきかない男が癒されたから:ペテロは40年間歩けなかった男がイエス様の名によって癒されたのを目撃した。即ち、イエス様は今もなお生きておられる確信がペテロに与えられた。また、この出来事は神様の癒す力が働いたことを意味する。弱かったペテロが大胆に福音を語れるように強められたのと同じような出来事である。
 4)御霊の助けがあったから:8節にて「ペテロは御霊に満たされて」とある通り、ペテロは過去の出来事のみならず、その場の神の力により大胆になれた。一方で、ペテロが御霊を感じた、とは聖書には書いていない。即ち、御霊は感覚によるものではない。また、御霊が働くと恐怖心がなくなるわけでもない。恐怖心があっても、神のために進み出ようとするとき、御霊が働かれる。
 5)多く赦されたから:ルカ7:41にて、イエス様がペテロに、二人の者が金貸しから金を借りる比喩を教えている。二人とも借りたお金を返せず、金貸しは二人とも赦してやった。より多く借りた方が、金貸しをより愛しただろう。同じように、多く赦されたペテロは、赦してくださったイエス様をより愛するようになり、イエス様のために働こうと思ったのであろう。
 大胆に語るペテロを前にし、大祭司たちは、今後はイエスの名によって語らないように、と脅した。しかし、ペテロは19節にて「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」と言い、大祭司には従わないことを選ぶ。また、彼は自分にも従わないことを選んだ、ともいえる。主を3回否定した時、彼はイエス様ではなく、逃げ出したい自分に従った。しかし、今は、彼は大祭司にも、自分の弱さにも従わず、神のみに従う道を選んだ。私たちも、キリストを受け入れたのであれば、自分に従わず、神のみに従うことを選ぶべきである。また、上記のように権力者からの指示が神の教えと対立する時は、権力者に従うのではなく、神のみに従うべきである。
 ペテロの変化について語ったが、内容は今日のキリスト者にも当てはまる。キリスト者はイエス様を復活させた力を持つ、神様によって変えられる。もちろん、変えられているのにも関わらず、ペテロのように、その変化を感じ取れないかもしれない。一方で、私たちがペテロの変化に気づいたように、周りのクリスチャンは私たちの変化にきっと気づくはず。そしてペテロのように、より大胆に、イエス様を伝える者とさせて頂きたい。伝えようとすると、きっと迫害があるはず。しかし、迫害がなくなるようにではなく、迫害がある中でも、主から与えられた権威をもってして、大胆に伝えられるようにお祈りしよう。