「色づいて,刈り入れるばかりになっています」王鋭伝道師–2021.08.15


「色づいて,刈り入れるばかりになっています」
ヨハネの福音書4:31-42;王鋭伝道師

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人は物事を後回しにしがちです。怠けることにより、たくさんの機会を逃しています。イエス様は弟子たちに、目を開くようにと何度も繰り返しています。もうすぐ収穫の時、今がその時です。後回しにしてはいけません。クリスチャンには福音を伝える使命が与えられています。福音を伝えるという機会を逃すことは、人のいのちに関わることです。
今日の聖書箇所はサマリアの女の話の間に挿入されています。イエス様はサマリヤの女に対して福音を伝えている時、弟子たちは食物を買いに行っていました。イエス様は弟子たちの心を知っていたように、私たちの心もご存知です。イエス様は、私たちがどのような人間であるかもご存知です。弟子たちにとって大切なのは地上における必要な物で、飲食に関わるものでした。イエス様は天のことを話していても、弟子たちは地上のことを考えていました。イエス様の肉体は私たちと同じです。疲れて、のどが渇いて、空腹を覚えます。しかしもっと大切なのは、人が生きるのはパンだけによるのではなく、神様の御言葉によって生きることです。御言葉を聞くだけではなく、それを行うことです。イエス様を遣わされたお方の御心を行い、成し遂げることです。人は地上のものを見ています。私たちはイエス様の弟子たちを弱くて愚かだと思っているかもしれません。果たして私たちは、ペテロ達よりも自分のほうが霊的だというのでしょうか。私たちは祝福されても弱さを持っています。イエス様は弟子たちをサマリヤに連れてきたのは、福音を伝える機会があるからです。しかし弟子たちは周りの環境に目を向け、機会を見出すことができませんでした。イエス様が収穫のたとえを話されたのは12月で、イスラエルの収穫する3-4月まではあと4ヶ月ありました。主は天国のことをお話になりましたが、弟子たちにはそれがわかりませんでした。イエス様は周りの環境ではない真実を見ており、福音のみを語りました。
まだ時期が来ていないとは、人の考えることです。やるべきことを後回しにしようとする怠け者は、いつも周りの環境しか見ていません。御言葉を用いて言い訳をしようとします。もし、エルサレム、ユダヤの全土とサマリヤに福音が伝えられることを待っていたら、異邦人である私たちにはのぞみはありません。大宣教命令から2000年経ちましたが、エルサレムにいる何人の人が主を信じたでしょうか?弟子たちがエルサレムを離れたのは、迫害があったからです。神様の力強い御手により、弟子たちはサマリヤや異邦人の地に散らされたのです。神様が私たちの目を開いてくださり、周りを見ることができるようになりますように。まだ12月だから収穫できないと思うのではなく、周りを通して神様の御心を見ることができるようになりますように。今がまさに収穫のときです。いつでもどこでも収穫することができますように。パウロはどの町でも最初にユダヤ人の会堂で福音を伝えましたが、すべての会堂から追い出されました。路傍でも市場でもいつでもどこでも出会ったあらゆる人にパウロは証しをしました。すでに色付き、収穫できるのです。言い訳をしてはいけません。種を蒔く人と刈り取る人がともに喜ばなくてはいけません。自分の撒いた種を他の人が刈り取ります。これが福音です。収穫する人は種を撒いていません。成長させたのは神様です。本当に働かれているのは神様です。天と地の働き方は全く異なります。神の園では、朝6時から働いた人と夕方6時から働いた人の報酬は同じです。成長をさせてくださるのは神様です。他人に収穫されることを恐れてはいけません。自分も他人が撒いたものを収穫するからです。 
サマリヤの女は、勇敢に福音を伝えました。誰かが主を信じるのは、あなたの言葉によるのではなく御言葉によるのです。私たちは神様と働きを競う必要はありません。しかし、まだ機会をうかがっているのはなぜでしょうか。サマリヤの女は近所の評判もよくなく、何かの才能があったわけではないでしょう。しかし、福音を伝えるのにふさわしい人になりました。それは、彼女は新しくされたからです。あなたが本当に主を信じているなら、サマリヤの女のように生ける泉の源になれます。イエス様は泉の源です。私たちが本当に信じるならば、聖霊が伴い、私たちも泉になることができます。信じたばかりのサマリヤの女は、弟子たちに勝る伝道者になりました。経験がなくても、彼女は聖霊の導きに従って、証しをしました。