「3回主を否定した」
ヨハネの福音書18:15-27;鈴木啓明宣教師
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ペテロが3回イエス様を否定する箇所について話を進めたい。また、この箇所が私たちにどんな意味があるかについて学びたい。なぜなら主の驚くべき恵みがこの箇所から見受けられるからである。
①失敗が赦される:
まず、ペテロはイエス様の12弟子の一人である。イエス様の弟子は信者とは異なる。信者は信じるのみであるのに対し、弟子は信じるに加えてイエス様に倣う者であり、信者より深い信仰を有する。そして、この12弟子の中でも、イエス様に近い存在として描かれる3人の弟子のうちの一人である。このようなが「弟子の中における弟子」であるペテロが3回も否定したのはイエス様を知っているかではない。イエス様を信じるかでもない。イエス様の弟子であるか、である(17, 25, 27節)。
大きな失敗を犯したペテロに対し、復活されたイエス様はヨハネ21章で「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と3回聞き、ペテロは「はい」と答えた。ある意味彼の罪は赦されたのである。その上で、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」という命令を出す。イエス様は羊飼いである。そのイエス様は命を捨ててまでも守ったのは自分の羊である。そのような羊を「飼う」という重大な責任をペテロに任せた、即ちペテロは信者ではなく、イエス様に従う弟子として扱われている。
②責任が与えられる:
神様の恵みと力により頼めば、3回も主を否定し、失敗したペテロでさえも、この責任を果たせる、こうイエス様は考えたのだろう。私も24~25歳の頃、クリスチャンになったばかりの頃、イエス様を否定してしまったことがある。日本では宗教は怪しいものと考えられている。心の弱い者が「宗教に走る」という言葉もあり、良いイメージを持つ人は少ない。職場生活が始まり、研修を受けていた私は、同僚から「啓明、聖書読んでいるだろう?」と聞かれた。そこで私は思いっきり否定してしまった。このような私でさえもイエス様は用いてくださる、これは驚くべき恵みであると思う。
イエス様はルカ22章32節にて、ペテロに対し「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と話された。これはペテロが主を否定する前の話である。後にペテロは主を否定してしまったが、そのような彼だからこそ、イエス様を否定してしまう兄弟の気持ちが理解でき、彼らを励ませるのである。私たちも今苦難に直面しているかもしれない、しかし、それ以上の苦しみを受けたイエス様が私たちを励ましてくださる。また、苦しみを乗り越えた私たちが、似たような苦難に直面している兄弟姉妹を励ますことにも繋がる。
③イエス様に守られる:
確かにペテロはイエス様を否定したが、彼はイエス様が捕まった時に、イエス様の後を追っかけて行った。また、彼は否定した後に遠く逃げるのではなく、「外で泣いた」。つまり、彼には信仰が残っていた。その信仰を守られるのもイエス様である。当然イエス様はペテロが主を否定することを知っていた。しかし、先ほど見たルカ22章の32節にて、イエス様は「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と話された。このイエス様の祈りがあるからこそ、ペテロの信仰はなくならなかった。
また、本日の聖書箇所の19節では大祭司がイエス様に弟子たちのことと、教えのことについて尋問したが、20節を見ると、イエス様が答えられたのは教えについてのみであることがわかる。これは、イエス様が弟子たちを守られているからである。また、8節にてイエス様は「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」と言われた。イエス様は良き羊飼いであり、羊のために命を捨てられるからである。私たちが失敗してしまう時でさえ、信仰を失わない根本的な理由は、イエス様が守っておられるからである。そのような神様に感謝したい。
私たちの周りには、かつて熱心に教会に通い、交わりに参加していたが、今ではほとんど教会に来なくなった人がいるだろう。彼らは教会に対して怒りを抱いていたり、生活がうまくいっていないのかもしれない。しかし、ペテロのように、彼らの信仰の灯は消えていないと信じたい。彼らも将来イエス様から大きな責任を与えられるかもしれない。彼らのために、私たちもとりなしの祈りを捧げよう。
