「サマリヤの女」 王鋭伝道師–2021.07.18


「サマリヤの女」
ヨハネの福音書4:1-30;王鋭伝道師

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 当時のサマリヤという地名には今の歌舞伎町と同じような意味合いがありました。かつてユダヤとサマリヤは同一民族でしたが、ソロモン時代のあとに南北に分かれた北イスラエルの首都がサマリヤでした。聖書をよく知る人ならご承知のとおり、北イスラエルは不敬虔な国でした。王国が滅び、多くの異邦人がサマリヤに入ってきたことにより、サマリヤには異邦人の血が混じり、信仰も混ざりました。今のクリスチャンも当時のサマリヤ人と同じように、日曜日は主を礼拝し、月曜日から土曜日はお金の神様を礼拝しているかもしれません。日曜日は夫と過ごし、月曜日から土曜日まで愛人と過ごしているように見えるサマリヤ人は、敬虔なユダヤ人から好ましく思われませんでした。

 イエス様がユダヤの地からガリラヤまで移動するために必ずしもサマリヤを通る必要はありませんでした。他に迂回路もあるので、敬虔なユダヤ人はサマリヤを必ずしも通る必要はありません。しかし、イエス様はサマリヤを通る必要がありました。それは、伝道者が歌舞伎町に足を踏み入れることが神様の御心であるのと同じです。当時のユダヤ人はサマリヤ人を見下していました。しかし、彼らの見下しているサマリヤ人のところにも福音は臨みます。

 イエス様は暑い中6時間くらい歩いて正午の頃にサマリヤに着きました。のどが渇いて空腹であっても、近くに店はありません。ヤコブの井戸は今も存在しており、とても深い井戸です。そこにサマリヤの女がやってきました。町から遠く離れた井戸に、しかも暑い昼間に水を汲みに来たのでしょうか。朝晩は涼しいところです。昼間は暑く、人通りもありません。これは普通のことではありません。イエス様がサマリヤの女に「水を飲ませてください」と話しかけることも普通ではありません。ユダヤ人とサマリヤ人は付き合わず、憎しみ合って互いに見下し合っていました。通常であれば、先生であるイエス様が歌舞伎町の女と話をすることはありません。イエス様は、文化、性別、血筋、伝統の壁を打ち破りました。イエス様の本当の目的は、水を飲ませてもらうことではありません。本当の目的は、イエス様が水を与えることです。サマリヤの女は賢く、この井戸は私たちの父ヤコブが与えたものだ、と言いました。ユダヤ人はサマリヤ人をヤコブの子孫と認めていませんでした。女はイエス様の言葉を受け入れないどころか敵意を抱いてののしりましたが、イエス様は彼女を見捨てませんでした。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して乾くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」というイエス様の言葉は、遠くまで一人で昼間に水を汲みに来るサマリヤの女の心の傷に触れました。サマリヤの女は態度を改め、イエス様を先生と呼びました。イエス様は夫を呼んできなさいと言いました。実はギリシャ語には夫という言葉はなく、男という言葉で夫を表現しています。過去に5人もの男と関係のあったサマリヤの女は、サマリヤの中でも不品行な存在だったはずです。今一緒にいる男も他人の夫なのかもしれません。それゆえ、人に会いたくないために遠くの深い井戸まで水を汲みに来なくてはいけないのです。徳の高い神学者ニコデモと真逆です。ニコデモは夜中にイエス様に会いに来ました。しかし、サマリヤの女は昼間にイエス様に会いました。ニコデモはどんどん口数が少なくなりましたが、サマリヤの女はどんどん話すようになりました。ニコデモは暗闇の中でイエス様に会い、暗闇の中に去っていきました。水と御霊によって生まれることがなかったのです。サマリヤの女は光の中でイエス様にあって、新しいいのちが与えられました。水と御霊によって生まれたのです。これがイエス様がサマリヤの女にあった目的です。イエス様は刀のような言葉で、サマリヤの女が心の暗闇に隠したところを切り裂きました。罪をきちんと伝えないと、福音を伝えることはできません。サマリヤの女は敵意を持って逃げようとし、私たち、あなたがた、と境界線を引こうとしました。問題から逃げようとしたのです。霊とまことによって礼拝するときが来ました。サマリヤの神殿は廃墟です。ユダヤ人によって壊されたからです。エルサレムの神殿も壊され、今は新しい神殿、復活のイエス様がおられます。礼拝する場所が重要なのではなく、誰でも霊とまことをもってどこでも礼拝することができます。これがイエス様が地上に来られた目的です。救い主が自らサマリヤの女を探して見つけてくださったのです。新しくされた女は、今まで避けていた自分を見下す人たちをイエス様のもとに連れていきました。女は生まれ変わったからです。私たちの心の隔たりをイエス様が打ち破ってくださいますように。