「アブラハムはエジプトに下って行った」王鋭伝道師-2021.07.04


「アブラハムはエジプトに下って行った」
創世記12:10-20;王鋭伝道師

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信仰の偉人アブラハムが人生のどん底を経験しました。彼は信仰の弱さを覚えました。しかしアブラハムの上に主の御手が下り彼の転機となります。私たちが覚えるのは私たちの望みは神様にあることです。

神がアブラハムをカナンの地に導き入れました。その地に飢饉が起こります。飢饉は極限の貧しさです。彼は生き延びるためにエジプトに下りました。約束の地を離れる決断です。

アブラハムはエジプトで生き延びるためにサラに自分の妹だと言ってくれと言います。アブラハムは殺されるのを恐れていました。アブラムは嘘をついても生き残ろうとしたのです。人間が絶望の淵に置かれた時、このような行動をします。パロは地上における神のような存在です。アブラハムはこの地では難民であり奴隷のような存在でした。彼は自分の妻を守ることすらできなかったのです。アブラハムの経験を形容するなら、それは絶望です。サライがパロの元に連れて行かれた時、アブラハムはどのような思いだったのでしょうか。

しかしこれがアブラハムにとって転機となります。パロはアブラハムに多くの財貨を与えました。このときアブラハムが最も墜落に近づいていた時ではないかと思います。彼は財産を得ました。神を忘れることもできたのです。しかしアブラハムは神の声を聞く人でした。17節、神の御手が入りました。アブラハムが絶望に陥っていた時、神が働かれました。人間の限界こそ神が働く時です。人間は高ぶります。もし私たちが絶望に陥る経験をしなければ神を忘れてしまいます。この時アブラハムは限界を迎えました。もう少しでエジプトに飲み込まれてしまうところでした。しかし神がパロを災害で痛めつけサライをアブラハムの元へ取り戻しました。

神はなぜアブラハムにこのような経験をさせたのでしょうか。パウロやペテロのように神に従った人たちが最終的に惨めなめな状況に陥ることがあります。教会で私たちは自分の弱さに気づきます。私たちが弱さを覚える時、神のくすしい御手に気づきます。私たちが弱さを覚えるときこそ神様が働かるときです。ですから神が用いようとする人を砕きます。苦しい経験をさせます。

アブラハムが経験したことは後にイスラエルがエジプトを出るときの経験と同じです。イスラエルは飢饉によってエジプトに下ります。そこで奴隷にされ弱さを覚えます。しかし神の救いによりカナンに地に戻ります。イエス様も命の危機を避けエジプトに下りました。イエス様は荒野で空腹を覚えられました。しかしイエス様とアブラハムやイスラエルとの違いは、イエス様はこのことを通して金持ちにはなりませんでした。イエス様の栄光は天にあるからです。弱さの上に本当の強さを見ることができます。ですから神はアブラハムにこのように経験をさせたのだと思います。アブラハムの息子のイサクやヤコブも彼と同じような失敗をします。しかし彼らは神から離れませんでした。彼らに信仰があったからです。神の愛が彼らから離れることはありません。絶望を通して彼らに転機が訪れます。どうか私たちも同じような経験ができますように。私たちが主の手を離さないように。絶望する時もあるでしょう。しかし神が私たちに転機を与えてくださいます。