「あの方は盛んになり私は衰えなければならない」王鋭伝道師-2021.06.27


「あの方は盛んになり私は衰えなければならない」
ヨハネの福音書3:22-30;王鋭伝道師

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「あの方は盛んになり私は衰えなければならない」とはバプテスマのヨハネが聖書にて語った最後の一言である。この言葉はクリスチャンである私たちが必ず直面する運命である。「あの方」はイエス様を指し、「私」はヨハネ自身を指す。バプテスマのヨハネ、及び人としてのイエス様の間には兄と弟、先輩と後輩、師匠と弟子の関係が存在する。ヨハネはイエス様より半年ほど年上であり、地上での働きを先に始めていた。また、イエス様に洗礼も授けている。ヨハネにとって、人としてのイエス様が「盛んになり」、自身が「衰えなければならない」運命を受け入れるのはとても難しかったはずである。

22-23節を見ると、イエス様とヨハネの働きが同時進行していた時期が存在することから、ヨハネもイエス様の働きが気になっていたはず。そんな中、25-26節にて、ヨハネの弟子たちが「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます」とヨハネに報告した。この言葉を聞くと「なぜ彼の働きが実を結ぶのか」「私が彼にバプテスマを授けたのに」「私は祭司の家庭、イエスは大工の家庭で育ったくせに」という思いが湧いてくるだろう。ヨハネの心の中では葛藤があったはず。私たちも教会で奉仕を捧げる時、成果について他者と比較したがる。特に後から教会に来た兄弟姉妹の働きが私たちよりも多くの実を結ぶ時、競争心や妬みが芽生えるだろう。

一方で、バプテスマのヨハネはその事実を受け入れた。ヨハネは捕まり殉教するまで、忠実を尽くした神のしもべである。心を尽くし、力を尽くして神に仕えた。彼には賜物も多く与えられており、地上における名声は常にイエス様よりも高かった。このような人でさえ、「みなあの方のほうに行きます」という現象が起きる。しかし、ヨハネは奉仕における主権は神様にあると知っていた。彼は自らの身分を正しく認識していた、即ち彼は「キリストではなく、その前に遣わされた者」であり、「花婿ではなく、介添え」であることを。私たちがヨハネと同じような状況に直面した時、まずは忠実に奉仕を捧げているか、改善できる余地はないか、問う必要がある。一方で、力を尽くして奉仕を捧げた上で、神様の主権を覚えなければならない。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」はヨハネの運命のみならず、私たちの運命、そして人としてのイエス様の運命でもある。イエス様はこう言われた「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」。これは即ち、イエス様が衰えることを指す。イエス様はこの世で数年間伝道されたが、最後は友に裏切られ、人が離れて行った。その後のペテロの働き、そしてパウロの働きはイエス様より大きいと言えるだろう。そして、ペテロもパウロも、最後は消えていった。イエス様に仕える代々の聖徒たちが衰える運命を迎えた。イエス様の弟子たちの数は最初の十数人から今日の数十億人に増えた。御国が広がる中、一人ひとりの聖徒はやがて衰える。

感謝することに、私たちの主イエス・キリストがますます盛んになる。その盛んさが、私たちが見下していた同労者の上に顕れるかもしれない。教会に長い間いる兄弟姉妹は、バプテスマのヨハネの証を見て、そのような覚悟を持つ必要がある。メッセージを語る者は、遅かれ早かれ自分よりも優れた説教者が、奏楽する者は、いつかは自分よりも優れた奏楽者が出てくるであろう。そのような出来事に直面した時、まずは自分が忠実に奉仕しているか問うこと。その上で、これは神様の主権であり、キリスト教会であることを覚えよう。